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エディタ

診療所リレーエッセイ

 国診協 診療所委員会では、同委員会が管理する「診療所関係者メーリングリスト*」において、2018年11月よりリレーエッセイとして毎月持ち回りでエッセイを執筆しています。一時休載となったこともありましたが、現在に至るまでたくさんのエッセイが投稿され、現在も診療所の先生方によるリレーが続いています。
 先生方が診療所での日々の診療やご自身の体験から紡がれた素敵なエッセイを、メーリングリストだけでなく国診協ホームページでもぜひ公開したいとの声が集まり、こちらに掲載させていただくことといたしました。どうぞご自由にご覧ください。
*診療所関係者メーリングリストには、国診協の診療所関係者で、過去に診療所委員会など国診協本部の委員会・部会に関わった先生方や、地域包括医療・ケア研修会の『診療所が面白い』セッションに登壇された先生方を登録しています。

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(令和5年1月)

県北西部地域医療センター国保白鳥病院 副院長
廣瀬 英生 先生

 2021年12月に国診協若手の会を立ち上げましたので報告します。

 国診協施設に勤める若手の先生方は、地域医療独特の悩み、壁などを相談する機会がなかなかありません。またそもそも国診協施設とは何かを知らない方も結構いる様です。そういった背景もあり、若手に国診協の活動をもっと知ってもらい、ひいては国診協の活動に興味をもち将来の国診協を背負っていく人材を支える目的で「国診協 若手の会」が総務企画委員会の下部組織として立ち上がりました。
 若手の会の加入条件を医師経験何年目までとするかは議論がありました。長すぎても短すぎてもうまくいかず、例えば10年目以内というようにしてしまうと残念ながら該当する方は国診協施設ではあまりいなくなってしまう。今後国診協を支える人物となりうることを目的とするということを照らし合わせても経験年数25年以内であればよいとした。また国診協以外の施設で同時に働いている方も多いと考え、主たる勤務施設が国診協の方とした。今後はいろいろな職種の若手をメンバーに入れたいが、まずは医師のみとして組織固めをしたいと考える。会の運営がスムーズにいけば、理学療法士、歯科医師、栄養士など様々な職種が入り活性化につなげたいと思われます
 現時点での活動としては、①若手のつどい これは月に1回各人のお悩み相談とか気軽にその場の雰囲気で話が盛り上がる感じになってます。②若手の勉強会 若手の会からでて、もう少し深堀したいテーマを勉強回答形で開催されました第1回目は「診療所経営」ということで川尻白鳥病院事務局長から講演とグループワークを行い、講評を博しました。本年2/24には「行政の付き合い方」というお題でまた行いたいと思います。③学会ではカフェコーナーを設け、若手の方、ベテラン医師を問わず語り合う場を設置しました
 若手の会のメンバーの中では、診療所で勤務している方が多いです。ぜひぜひ皆様ご支援のほどお願いいたします


(令和5年2月)

奈良県・明日香村国民健康保険診療所長
武田 以知郎 先生


ドキュメンタリー映画「明日香に生きる」

 コロナ禍の令和3年秋から約400日をかけて、明日香村で撮影された溝渕雅幸監督のドキュメンタリー映画「明日香に生きる」が、いよいよこの春から全国で公開されます。
溝渕監督は奈良県在住で、「いのちがいちばん輝く日」、「四万十いのちの仕舞い」、「結びの島」など、いのちに寄り添うシリーズで数々の作品を手掛けておられます。
 今回、明日香村を選んでいただけたのは、別の上映会の懇親会で意気投合したのを機に、それとなく次は明日香だよと脅されていました(笑)。過去の作品の主人公の医師のように
確固たるポリシーや実績がない中で、私個人より明日香という地域が主役ということで引き受けることにしました。全国的に有名な明日香村ではありますが、実は奈良県立医科大学に近く、医学生や研修医をたくさん受け入れてきています。さらに明日香村国民健康保険診療所の診療内容は総合診療そのもので、総合診療専門医の専攻医も今回の映画の目玉になりました。一般住民が観る中で、「総合診療専門医」の具体的な役割を理解してもらえたらと期待しています。その他、監督の他の作品ではあまりクローズアップされていなかった看護師や訪問看護師、ケアマネ、訪問リハビリ、訪問栄養士、臨床心理士など多職種のチーム医療が描かれています。歯科との連携は、早々に急変されてお蔵入りになってしまったのが残念でした。
 映像は、Dr.コトー診療所のような感動させるような演出はなく、私の日常診療が淡々と描かれています。カメラに向かってうんちくを語ろうものなら、「カット~!!」なんて叱られる?ような感じで、そのうちカメラが入っているのをほとんど意識しなくなりました。
だから余計にリアリティがあり、その風景を紡いでものがたりを作り上げています。感動するようなお看取りもたくさんありましたが、撮影NGだったりあえて使われなかったシーンもたくさんありました。切り詰めて切り詰めて濃縮しても2時間の超大作となっています。国保診療所が舞台なので、是非皆さんもご覧いただければありがたいです。(私には一切の収入はありませんが(笑))  2月24日の奈良県橿原市を皮切りに関西から関東、そして全国に展開される予定です。
 以下に、映画に際しての私のメッセージを紹介しておきます。  

*日本人の心のふるさと、明日香村には身も心も癒される空気が流れている。のどかな農村風景の奥に、かつて日本の都として栄え、大化の改新など多くの歴史的な動きがあったことに想いはせると、また違った景色が心に映るだろう。
 そんな地に導かれ、十数年前に診療所に赴任した。そして今、子供たちは青年に、元気だった高齢者が旅立つ姿に時の流れを感じるとともに、いくつもの“いのちのバトン”が受け継がれていく場面を想起する。明日香村の歴史から考えると、私の居る十数年は僅かかもしれないが、その間も医学は進歩し、私の子供時代に描いたお医者さんとはずいぶん違う医療を担うことになってしまった。しかし、いのちのバトンだけは変わらずに受け継がれていく。
 その昔、医師と看護師と産婆さんだけだった地域医療は、今や多くの制度と多くの職種に支えられ、多様な選択肢が用意されている。そして医療自体も臓器別、専門細分化から改めて総合診療やかかりつけ医など、多様性に寄り添える医療の必要性が謳われるようになった。明日香村には高度な医療はないが、村民のいのちに寄り添い、総合性を持ちながら身近で優しい医療を提供できる、昔ながらの“お医者さん”を目指している。
 今回溝渕監督と意気投合し、明日香を撮っていただけることになったが、正直在宅医療や総合医療の分野では特に秀でたものはない、今やごく普通の地域医療の姿だろう。ただ映画の中にたくさん登場する若き医師達(総合診療専攻医や研修医)が、大学病院では経験できない地域医療のリアリティの中で何を感じたかを視聴者にも一緒に考えていただけるだろう。溝渕監督と言えば、いのちに寄り添うとともに、美しい風景描写が定評だ。明日香は誰が撮っても美しい絵になるが、私が紹介する景色には興味を示されなかった。きっといのちのバトンにつながる生きた明日香の姿が描かれ、その映像はみなさんの心に心地よく焼き付くだろう。
 


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(平成31年1月)

秋田県・にかほ市国民健康保険小出・院内診療所長
和田 智子 先生

 この時期になると、外に出ていた若者も戻ってきて、一時集落の家々がにぎやかになります。2世代同居であった家も一挙に4世代がそろうといったことも稀ではありません。
 楽しい楽しいひと時を、皆が共有します。南から来た子供たちは、雪に喜んで遊びます。(ちなみに1月2日が休日当番にあたっていましたが、ほとんどが子供達でした。)
 しかし、そんな楽しい時間はほんの一瞬ですぎていきます。
 子や孫たちは、また、元の土地に帰りゆき、残された者たちもこの土地で、また、日常を過ごしていくことになります。

 さて、昨日受診した93歳のお婆ちゃん。飲み薬は忘れても、畑仕事は忘れません。でも、この時期には畑でやれる仕事はなく、楽しみと言えば、やはり暮れから正月に帰ってくる孫とひ孫です。ひ孫も一番下がもう小学校4年生になりました。そんなわけで、一緒に遊ぶ役割は自分の息子夫婦にバトンタッチしてますが(息子夫婦ももう後期高齢者に突入しています。)、それでも、それはそれは楽しいひと時なのです。眺めているだけでいいのです。それでも、必ず別れの時はやってきます。
 昨日受診した時の、最初の言葉は、「昨日帰った。」でした。いつもいつも私が、帰ってきたか問うもので、その言葉になってしまったのでしょう。「さびしくなっちゃったね。」と声をかけると、「お正月はいっぱいで大変だったな。来た時はいいけど、帰る時はやっぱりな・・・。けば(来れば)必ず行く。」それを聞いて声をかけられないでいた私に、数秒の間ののちに「じぇんこもな(お金もな)。」と言葉を継いでくれて、診察室で二人で笑い合いました。
 
 たったそれだけのことだったのですが、時の移ろいや無常感など、たくさんのことを感じさせていただきました。盆と正月は、餅つきが器械になっても、正月料理が宅配になっても、やはりとてもとても大切なときなのです。

(平成31年2月)

奈良県・明日香村国民健康保険診療所長
武田 以知郎 先生


Dr.イチローの地域医療の原点を探る-Vol.1

 自治医大を卒業した定めで、卒業後は基本的に出身県の奈良県内で勤めてきましたが、義務年限終了後は入局していた奈良医大小児科に身を投じることになりました。お世話になりますと忠誠を誓った矢先、当時医局の関連病院だった福井県の若狭地域にある国立療養所にいきなり派遣されることになりました。「え〜、地元に家を建てたばかりなのに!」まるで企業のサラリーマンみたいな話で単身赴任となってしまいました。義務年限内にへき地から大学まで研究に通い、既に取得目前だった博士号の言わばお礼奉公みたいな派遣でしたが、ここでの1年間はのちのちの仕事に影響与える貴重な機会となりました。
 ここでの診療は、地域の小児プライマリケア、重症心身障害児のケア、末期のエイズ患者さんのケアなど、普通の病院の小児科勤務医より濃くて深い総合的な診療に携わることができました。大学病院などの先端医療では600gの極小未熟児を助けた、血友病の最新治療薬が開発されたとか言う裏側で、重い障害を残し施設で過ごさざるを得なかったり、血友病治療の影響でエイズに感染し、遠く離れた療養所で1人ひっそりと亡くなっていった方など。医療の光と闇を痛感する1年でもありました。
 それにもまして影響を与えたのは、同じ大学の卒業生達との出会いでした。当時派遣された療養所の隣町の診療所には、カナダのトロントから災害救急を学んで帰国した林寛之先生(現福井大学医学部総合診療部教授)が勤務していました。自治医大の福井県人会の勉強会にお邪魔した際に、彼から当時はまだ普及していなかったトリアージの概念を教わりました。奇しくもその冬に阪神淡路大震災がありましたが、もちろんこの概念は知られておらず、ここで活かされなかったのが大変残念に思いました。
 もう1人、同じ若狭地域の名田庄村(現おおい町)の中村伸一先生が勤務していました。私が奈良県のへき地診療所に勤務しているときに、ある雑誌に彼の地域医療の活動報告が掲載されていました。当時私が抱いていた地域医療への思いと全く共通したもので、親近感を覚え一度会ってみたいと思っていたのです。
 福井に赴任して半年の1月16日の母校での学会でやっと彼と会うことが出来て、実際に話をしても「やはりこいつはすごい!」と言う印象を持ち福井に戻りました。その翌日の明け方、官舎で寝ていたら尋常ではない揺れを感じました。そうあの阪神淡路大震災の揺れだったのです。最初は美浜原発の爆発かと焦りましたが、テレビでNHK神戸支局の映像をみて初めてとんでもないことが起こったと知りました。残念ながら病院からの災害派遣隊には加われませんでしたが、大変な年となりました。
 その後しばらくして、福井県人会で中村先生と何度か顔を合わせるたびに意気投合し、名田庄村に集まろうということになりました。林寛之先生と県境越えたすぐの滋賀県朽木村に勤務していた同期生の高橋昭彦先生(現ひばりクリニック院長)、敦賀病院勤務医だった同期生で先代の名田庄診療所長の服部昌和先生(現福井県立病院健康診断センター長)ら5人で名田庄村の「新佐」と言う料理旅館で夕方6時ごろから飲み始め、とんでもなく話が弾み、気付いたら明け方の4時になっていました。私の中では明治維新の勤皇の志士の雰囲気で「新佐の夜明け」として心に強く残っています。
通常であれば、3年間ぐらいは福井で勤務するのですが、3月になって奈良県庁の健康局長から電話があり、「県立五條病院をへき地医療中核病院に指定するにあたり、へき地医療を支援する部署を新設し、部長としてやってくれないか」と言う内容でした。
 地元に帰れる喜びと同時に、卒業生の懸案だったへき地医療支援システムが動く喜びで「やりたいです!」と即答しました。が、医局派遣なので、教授の許可がないとお受けすることはできないと言うと「もう話はつけてある」と言うことで、平成7年5月から奈良県に帰還し、県立五條病院へき地医療支援部を立ち上げることになりました。
このへき地医療支援システムを高く評価してくれたのは、紛れもなく中村伸一先生でした。私自身としては、彼の名田庄に定着しての揺るがない地域医療に憧れを抱いていました。また彼からは健康学習学会にも導いてもらい、私が緊張せず聴衆に自分ごととして心に響くプレゼンが出来るようになったルーツとなしました。中村伸一先生は、後輩ではありますが師匠でもあり、同志でもあり、良きライバルでもあります。そして彼が力を注いでいる国保直診は、私にとっても地域医療の原点でもあります。

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(平成31年1月)

秋田県・にかほ市国民健康保険小出・院内診療所長
和田 智子 先生

 この時期になると、外に出ていた若者も戻ってきて、一時集落の家々がにぎやかになります。2世代同居であった家も一挙に4世代がそろうといったことも稀ではありません。
 楽しい楽しいひと時を、皆が共有します。南から来た子供たちは、雪に喜んで遊びます。(ちなみに1月2日が休日当番にあたっていましたが、ほとんどが子供達でした。)
 しかし、そんな楽しい時間はほんの一瞬ですぎていきます。
 子や孫たちは、また、元の土地に帰りゆき、残された者たちもこの土地で、また、日常を過ごしていくことになります。

 さて、昨日受診した93歳のお婆ちゃん。飲み薬は忘れても、畑仕事は忘れません。でも、この時期には畑でやれる仕事はなく、楽しみと言えば、やはり暮れから正月に帰ってくる孫とひ孫です。ひ孫も一番下がもう小学校4年生になりました。そんなわけで、一緒に遊ぶ役割は自分の息子夫婦にバトンタッチしてますが(息子夫婦ももう後期高齢者に突入しています。)、それでも、それはそれは楽しいひと時なのです。眺めているだけでいいのです。それでも、必ず別れの時はやってきます。
 昨日受診した時の、最初の言葉は、「昨日帰った。」でした。いつもいつも私が、帰ってきたか問うもので、その言葉になってしまったのでしょう。「さびしくなっちゃったね。」と声をかけると、「お正月はいっぱいで大変だったな。来た時はいいけど、帰る時はやっぱりな・・・。けば(来れば)必ず行く。」それを聞いて声をかけられないでいた私に、数秒の間ののちに「じぇんこもな(お金もな)。」と言葉を継いでくれて、診察室で二人で笑い合いました。
 
 たったそれだけのことだったのですが、時の移ろいや無常感など、たくさんのことを感じさせていただきました。盆と正月は、餅つきが器械になっても、正月料理が宅配になっても、やはりとてもとても大切なときなのです。

(平成31年2月)

奈良県・明日香村国民健康保険診療所長
武田 以知郎 先生


Dr.イチローの地域医療の原点を探る-Vol.1

 自治医大を卒業した定めで、卒業後は基本的に出身県の奈良県内で勤めてきましたが、義務年限終了後は入局していた奈良医大小児科に身を投じることになりました。お世話になりますと忠誠を誓った矢先、当時医局の関連病院だった福井県の若狭地域にある国立療養所にいきなり派遣されることになりました。「え〜、地元に家を建てたばかりなのに!」まるで企業のサラリーマンみたいな話で単身赴任となってしまいました。義務年限内にへき地から大学まで研究に通い、既に取得目前だった博士号の言わばお礼奉公みたいな派遣でしたが、ここでの1年間はのちのちの仕事に影響与える貴重な機会となりました。
 ここでの診療は、地域の小児プライマリケア、重症心身障害児のケア、末期のエイズ患者さんのケアなど、普通の病院の小児科勤務医より濃くて深い総合的な診療に携わることができました。大学病院などの先端医療では600gの極小未熟児を助けた、血友病の最新治療薬が開発されたとか言う裏側で、重い障害を残し施設で過ごさざるを得なかったり、血友病治療の影響でエイズに感染し、遠く離れた療養所で1人ひっそりと亡くなっていった方など。医療の光と闇を痛感する1年でもありました。
 それにもまして影響を与えたのは、同じ大学の卒業生達との出会いでした。当時派遣された療養所の隣町の診療所には、カナダのトロントから災害救急を学んで帰国した林寛之先生(現福井大学医学部総合診療部教授)が勤務していました。自治医大の福井県人会の勉強会にお邪魔した際に、彼から当時はまだ普及していなかったトリアージの概念を教わりました。奇しくもその冬に阪神淡路大震災がありましたが、もちろんこの概念は知られておらず、ここで活かされなかったのが大変残念に思いました。
 もう1人、同じ若狭地域の名田庄村(現おおい町)の中村伸一先生が勤務していました。私が奈良県のへき地診療所に勤務しているときに、ある雑誌に彼の地域医療の活動報告が掲載されていました。当時私が抱いていた地域医療への思いと全く共通したもので、親近感を覚え一度会ってみたいと思っていたのです。
 福井に赴任して半年の1月16日の母校での学会でやっと彼と会うことが出来て、実際に話をしても「やはりこいつはすごい!」と言う印象を持ち福井に戻りました。その翌日の明け方、官舎で寝ていたら尋常ではない揺れを感じました。そうあの阪神淡路大震災の揺れだったのです。最初は美浜原発の爆発かと焦りましたが、テレビでNHK神戸支局の映像をみて初めてとんでもないことが起こったと知りました。残念ながら病院からの災害派遣隊には加われませんでしたが、大変な年となりました。
 その後しばらくして、福井県人会で中村先生と何度か顔を合わせるたびに意気投合し、名田庄村に集まろうということになりました。林寛之先生と県境越えたすぐの滋賀県朽木村に勤務していた同期生の高橋昭彦先生(現ひばりクリニック院長)、敦賀病院勤務医だった同期生で先代の名田庄診療所長の服部昌和先生(現福井県立病院健康診断センター長)ら5人で名田庄村の「新佐」と言う料理旅館で夕方6時ごろから飲み始め、とんでもなく話が弾み、気付いたら明け方の4時になっていました。私の中では明治維新の勤皇の志士の雰囲気で「新佐の夜明け」として心に強く残っています。
通常であれば、3年間ぐらいは福井で勤務するのですが、3月になって奈良県庁の健康局長から電話があり、「県立五條病院をへき地医療中核病院に指定するにあたり、へき地医療を支援する部署を新設し、部長としてやってくれないか」と言う内容でした。
 地元に帰れる喜びと同時に、卒業生の懸案だったへき地医療支援システムが動く喜びで「やりたいです!」と即答しました。が、医局派遣なので、教授の許可がないとお受けすることはできないと言うと「もう話はつけてある」と言うことで、平成7年5月から奈良県に帰還し、県立五條病院へき地医療支援部を立ち上げることになりました。
このへき地医療支援システムを高く評価してくれたのは、紛れもなく中村伸一先生でした。私自身としては、彼の名田庄に定着しての揺るがない地域医療に憧れを抱いていました。また彼からは健康学習学会にも導いてもらい、私が緊張せず聴衆に自分ごととして心に響くプレゼンが出来るようになったルーツとなしました。中村伸一先生は、後輩ではありますが師匠でもあり、同志でもあり、良きライバルでもあります。そして彼が力を注いでいる国保直診は、私にとっても地域医療の原点でもあります。

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秋田県・にかほ市国民健康保険小出・院内診療所長
和田 智子 先生

 この時期になると、外に出ていた若者も戻ってきて、一時集落の家々がにぎやかになります。2世代同居であった家も一挙に4世代がそろうといったことも稀ではありません。
 楽しい楽しいひと時を、皆が共有します。南から来た子供たちは、雪に喜んで遊びます。(ちなみに1月2日が休日当番にあたっていましたが、ほとんどが子供達でした。)
 しかし、そんな楽しい時間はほんの一瞬ですぎていきます。
 子や孫たちは、また、元の土地に帰りゆき、残された者たちもこの土地で、また、日常を過ごしていくことになります。

 さて、昨日受診した93歳のお婆ちゃん。飲み薬は忘れても、畑仕事は忘れません。でも、この時期には畑でやれる仕事はなく、楽しみと言えば、やはり暮れから正月に帰ってくる孫とひ孫です。ひ孫も一番下がもう小学校4年生になりました。そんなわけで、一緒に遊ぶ役割は自分の息子夫婦にバトンタッチしてますが(息子夫婦ももう後期高齢者に突入しています。)、それでも、それはそれは楽しいひと時なのです。眺めているだけでいいのです。それでも、必ず別れの時はやってきます。
 昨日受診した時の、最初の言葉は、「昨日帰った。」でした。いつもいつも私が、帰ってきたか問うもので、その言葉になってしまったのでしょう。「さびしくなっちゃったね。」と声をかけると、「お正月はいっぱいで大変だったな。来た時はいいけど、帰る時はやっぱりな・・・。けば(来れば)必ず行く。」それを聞いて声をかけられないでいた私に、数秒の間ののちに「じぇんこもな(お金もな)。」と言葉を継いでくれて、診察室で二人で笑い合いました。
 
 たったそれだけのことだったのですが、時の移ろいや無常感など、たくさんのことを感じさせていただきました。盆と正月は、餅つきが器械になっても、正月料理が宅配になっても、やはりとてもとても大切なときなのです。

(平成31年2月)

奈良県・明日香村国民健康保険診療所長
武田 以知郎 先生


Dr.イチローの地域医療の原点を探る-Vol.1

 自治医大を卒業した定めで、卒業後は基本的に出身県の奈良県内で勤めてきましたが、義務年限終了後は入局していた奈良医大小児科に身を投じることになりました。お世話になりますと忠誠を誓った矢先、当時医局の関連病院だった福井県の若狭地域にある国立療養所にいきなり派遣されることになりました。「え〜、地元に家を建てたばかりなのに!」まるで企業のサラリーマンみたいな話で単身赴任となってしまいました。義務年限内にへき地から大学まで研究に通い、既に取得目前だった博士号の言わばお礼奉公みたいな派遣でしたが、ここでの1年間はのちのちの仕事に影響与える貴重な機会となりました。
 ここでの診療は、地域の小児プライマリケア、重症心身障害児のケア、末期のエイズ患者さんのケアなど、普通の病院の小児科勤務医より濃くて深い総合的な診療に携わることができました。大学病院などの先端医療では600gの極小未熟児を助けた、血友病の最新治療薬が開発されたとか言う裏側で、重い障害を残し施設で過ごさざるを得なかったり、血友病治療の影響でエイズに感染し、遠く離れた療養所で1人ひっそりと亡くなっていった方など。医療の光と闇を痛感する1年でもありました。
 それにもまして影響を与えたのは、同じ大学の卒業生達との出会いでした。当時派遣された療養所の隣町の診療所には、カナダのトロントから災害救急を学んで帰国した林寛之先生(現福井大学医学部総合診療部教授)が勤務していました。自治医大の福井県人会の勉強会にお邪魔した際に、彼から当時はまだ普及していなかったトリアージの概念を教わりました。奇しくもその冬に阪神淡路大震災がありましたが、もちろんこの概念は知られておらず、ここで活かされなかったのが大変残念に思いました。
 もう1人、同じ若狭地域の名田庄村(現おおい町)の中村伸一先生が勤務していました。私が奈良県のへき地診療所に勤務しているときに、ある雑誌に彼の地域医療の活動報告が掲載されていました。当時私が抱いていた地域医療への思いと全く共通したもので、親近感を覚え一度会ってみたいと思っていたのです。
 福井に赴任して半年の1月16日の母校での学会でやっと彼と会うことが出来て、実際に話をしても「やはりこいつはすごい!」と言う印象を持ち福井に戻りました。その翌日の明け方、官舎で寝ていたら尋常ではない揺れを感じました。そうあの阪神淡路大震災の揺れだったのです。最初は美浜原発の爆発かと焦りましたが、テレビでNHK神戸支局の映像をみて初めてとんでもないことが起こったと知りました。残念ながら病院からの災害派遣隊には加われませんでしたが、大変な年となりました。
 その後しばらくして、福井県人会で中村先生と何度か顔を合わせるたびに意気投合し、名田庄村に集まろうということになりました。林寛之先生と県境越えたすぐの滋賀県朽木村に勤務していた同期生の高橋昭彦先生(現ひばりクリニック院長)、敦賀病院勤務医だった同期生で先代の名田庄診療所長の服部昌和先生(現福井県立病院健康診断センター長)ら5人で名田庄村の「新佐」と言う料理旅館で夕方6時ごろから飲み始め、とんでもなく話が弾み、気付いたら明け方の4時になっていました。私の中では明治維新の勤皇の志士の雰囲気で「新佐の夜明け」として心に強く残っています。
通常であれば、3年間ぐらいは福井で勤務するのですが、3月になって奈良県庁の健康局長から電話があり、「県立五條病院をへき地医療中核病院に指定するにあたり、へき地医療を支援する部署を新設し、部長としてやってくれないか」と言う内容でした。
 地元に帰れる喜びと同時に、卒業生の懸案だったへき地医療支援システムが動く喜びで「やりたいです!」と即答しました。が、医局派遣なので、教授の許可がないとお受けすることはできないと言うと「もう話はつけてある」と言うことで、平成7年5月から奈良県に帰還し、県立五條病院へき地医療支援部を立ち上げることになりました。
このへき地医療支援システムを高く評価してくれたのは、紛れもなく中村伸一先生でした。私自身としては、彼の名田庄に定着しての揺るがない地域医療に憧れを抱いていました。また彼からは健康学習学会にも導いてもらい、私が緊張せず聴衆に自分ごととして心に響くプレゼンが出来るようになったルーツとなしました。中村伸一先生は、後輩ではありますが師匠でもあり、同志でもあり、良きライバルでもあります。そして彼が力を注いでいる国保直診は、私にとっても地域医療の原点でもあります。

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秋田県・にかほ市国民健康保険小出・院内診療所長
和田 智子 先生

 この時期になると、外に出ていた若者も戻ってきて、一時集落の家々がにぎやかになります。2世代同居であった家も一挙に4世代がそろうといったことも稀ではありません。
 楽しい楽しいひと時を、皆が共有します。南から来た子供たちは、雪に喜んで遊びます。(ちなみに1月2日が休日当番にあたっていましたが、ほとんどが子供達でした。)
 しかし、そんな楽しい時間はほんの一瞬ですぎていきます。
 子や孫たちは、また、元の土地に帰りゆき、残された者たちもこの土地で、また、日常を過ごしていくことになります。

 さて、昨日受診した93歳のお婆ちゃん。飲み薬は忘れても、畑仕事は忘れません。でも、この時期には畑でやれる仕事はなく、楽しみと言えば、やはり暮れから正月に帰ってくる孫とひ孫です。ひ孫も一番下がもう小学校4年生になりました。そんなわけで、一緒に遊ぶ役割は自分の息子夫婦にバトンタッチしてますが(息子夫婦ももう後期高齢者に突入しています。)、それでも、それはそれは楽しいひと時なのです。眺めているだけでいいのです。それでも、必ず別れの時はやってきます。
 昨日受診した時の、最初の言葉は、「昨日帰った。」でした。いつもいつも私が、帰ってきたか問うもので、その言葉になってしまったのでしょう。「さびしくなっちゃったね。」と声をかけると、「お正月はいっぱいで大変だったな。来た時はいいけど、帰る時はやっぱりな・・・。けば(来れば)必ず行く。」それを聞いて声をかけられないでいた私に、数秒の間ののちに「じぇんこもな(お金もな)。」と言葉を継いでくれて、診察室で二人で笑い合いました。
 
 たったそれだけのことだったのですが、時の移ろいや無常感など、たくさんのことを感じさせていただきました。盆と正月は、餅つきが器械になっても、正月料理が宅配になっても、やはりとてもとても大切なときなのです。

(平成31年2月)

奈良県・明日香村国民健康保険診療所長
武田 以知郎 先生


Dr.イチローの地域医療の原点を探る-Vol.1

 自治医大を卒業した定めで、卒業後は基本的に出身県の奈良県内で勤めてきましたが、義務年限終了後は入局していた奈良医大小児科に身を投じることになりました。お世話になりますと忠誠を誓った矢先、当時医局の関連病院だった福井県の若狭地域にある国立療養所にいきなり派遣されることになりました。「え〜、地元に家を建てたばかりなのに!」まるで企業のサラリーマンみたいな話で単身赴任となってしまいました。義務年限内にへき地から大学まで研究に通い、既に取得目前だった博士号の言わばお礼奉公みたいな派遣でしたが、ここでの1年間はのちのちの仕事に影響与える貴重な機会となりました。
 ここでの診療は、地域の小児プライマリケア、重症心身障害児のケア、末期のエイズ患者さんのケアなど、普通の病院の小児科勤務医より濃くて深い総合的な診療に携わることができました。大学病院などの先端医療では600gの極小未熟児を助けた、血友病の最新治療薬が開発されたとか言う裏側で、重い障害を残し施設で過ごさざるを得なかったり、血友病治療の影響でエイズに感染し、遠く離れた療養所で1人ひっそりと亡くなっていった方など。医療の光と闇を痛感する1年でもありました。
 それにもまして影響を与えたのは、同じ大学の卒業生達との出会いでした。当時派遣された療養所の隣町の診療所には、カナダのトロントから災害救急を学んで帰国した林寛之先生(現福井大学医学部総合診療部教授)が勤務していました。自治医大の福井県人会の勉強会にお邪魔した際に、彼から当時はまだ普及していなかったトリアージの概念を教わりました。奇しくもその冬に阪神淡路大震災がありましたが、もちろんこの概念は知られておらず、ここで活かされなかったのが大変残念に思いました。
 もう1人、同じ若狭地域の名田庄村(現おおい町)の中村伸一先生が勤務していました。私が奈良県のへき地診療所に勤務しているときに、ある雑誌に彼の地域医療の活動報告が掲載されていました。当時私が抱いていた地域医療への思いと全く共通したもので、親近感を覚え一度会ってみたいと思っていたのです。
 福井に赴任して半年の1月16日の母校での学会でやっと彼と会うことが出来て、実際に話をしても「やはりこいつはすごい!」と言う印象を持ち福井に戻りました。その翌日の明け方、官舎で寝ていたら尋常ではない揺れを感じました。そうあの阪神淡路大震災の揺れだったのです。最初は美浜原発の爆発かと焦りましたが、テレビでNHK神戸支局の映像をみて初めてとんでもないことが起こったと知りました。残念ながら病院からの災害派遣隊には加われませんでしたが、大変な年となりました。
 その後しばらくして、福井県人会で中村先生と何度か顔を合わせるたびに意気投合し、名田庄村に集まろうということになりました。林寛之先生と県境越えたすぐの滋賀県朽木村に勤務していた同期生の高橋昭彦先生(現ひばりクリニック院長)、敦賀病院勤務医だった同期生で先代の名田庄診療所長の服部昌和先生(現福井県立病院健康診断センター長)ら5人で名田庄村の「新佐」と言う料理旅館で夕方6時ごろから飲み始め、とんでもなく話が弾み、気付いたら明け方の4時になっていました。私の中では明治維新の勤皇の志士の雰囲気で「新佐の夜明け」として心に強く残っています。
通常であれば、3年間ぐらいは福井で勤務するのですが、3月になって奈良県庁の健康局長から電話があり、「県立五條病院をへき地医療中核病院に指定するにあたり、へき地医療を支援する部署を新設し、部長としてやってくれないか」と言う内容でした。
 地元に帰れる喜びと同時に、卒業生の懸案だったへき地医療支援システムが動く喜びで「やりたいです!」と即答しました。が、医局派遣なので、教授の許可がないとお受けすることはできないと言うと「もう話はつけてある」と言うことで、平成7年5月から奈良県に帰還し、県立五條病院へき地医療支援部を立ち上げることになりました。
このへき地医療支援システムを高く評価してくれたのは、紛れもなく中村伸一先生でした。私自身としては、彼の名田庄に定着しての揺るがない地域医療に憧れを抱いていました。また彼からは健康学習学会にも導いてもらい、私が緊張せず聴衆に自分ごととして心に響くプレゼンが出来るようになったルーツとなしました。中村伸一先生は、後輩ではありますが師匠でもあり、同志でもあり、良きライバルでもあります。そして彼が力を注いでいる国保直診は、私にとっても地域医療の原点でもあります。

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(平成31年1月)

秋田県・にかほ市国民健康保険小出・院内診療所長
和田 智子 先生

 この時期になると、外に出ていた若者も戻ってきて、一時集落の家々がにぎやかになります。2世代同居であった家も一挙に4世代がそろうといったことも稀ではありません。
 楽しい楽しいひと時を、皆が共有します。南から来た子供たちは、雪に喜んで遊びます。(ちなみに1月2日が休日当番にあたっていましたが、ほとんどが子供達でした。)
 しかし、そんな楽しい時間はほんの一瞬ですぎていきます。
 子や孫たちは、また、元の土地に帰りゆき、残された者たちもこの土地で、また、日常を過ごしていくことになります。

 さて、昨日受診した93歳のお婆ちゃん。飲み薬は忘れても、畑仕事は忘れません。でも、この時期には畑でやれる仕事はなく、楽しみと言えば、やはり暮れから正月に帰ってくる孫とひ孫です。ひ孫も一番下がもう小学校4年生になりました。そんなわけで、一緒に遊ぶ役割は自分の息子夫婦にバトンタッチしてますが(息子夫婦ももう後期高齢者に突入しています。)、それでも、それはそれは楽しいひと時なのです。眺めているだけでいいのです。それでも、必ず別れの時はやってきます。
 昨日受診した時の、最初の言葉は、「昨日帰った。」でした。いつもいつも私が、帰ってきたか問うもので、その言葉になってしまったのでしょう。「さびしくなっちゃったね。」と声をかけると、「お正月はいっぱいで大変だったな。来た時はいいけど、帰る時はやっぱりな・・・。けば(来れば)必ず行く。」それを聞いて声をかけられないでいた私に、数秒の間ののちに「じぇんこもな(お金もな)。」と言葉を継いでくれて、診察室で二人で笑い合いました。
 
 たったそれだけのことだったのですが、時の移ろいや無常感など、たくさんのことを感じさせていただきました。盆と正月は、餅つきが器械になっても、正月料理が宅配になっても、やはりとてもとても大切なときなのです。

(平成31年2月)

奈良県・明日香村国民健康保険診療所長
武田 以知郎 先生


Dr.イチローの地域医療の原点を探る-Vol.1

 自治医大を卒業した定めで、卒業後は基本的に出身県の奈良県内で勤めてきましたが、義務年限終了後は入局していた奈良医大小児科に身を投じることになりました。お世話になりますと忠誠を誓った矢先、当時医局の関連病院だった福井県の若狭地域にある国立療養所にいきなり派遣されることになりました。「え〜、地元に家を建てたばかりなのに!」まるで企業のサラリーマンみたいな話で単身赴任となってしまいました。義務年限内にへき地から大学まで研究に通い、既に取得目前だった博士号の言わばお礼奉公みたいな派遣でしたが、ここでの1年間はのちのちの仕事に影響与える貴重な機会となりました。
 ここでの診療は、地域の小児プライマリケア、重症心身障害児のケア、末期のエイズ患者さんのケアなど、普通の病院の小児科勤務医より濃くて深い総合的な診療に携わることができました。大学病院などの先端医療では600gの極小未熟児を助けた、血友病の最新治療薬が開発されたとか言う裏側で、重い障害を残し施設で過ごさざるを得なかったり、血友病治療の影響でエイズに感染し、遠く離れた療養所で1人ひっそりと亡くなっていった方など。医療の光と闇を痛感する1年でもありました。
 それにもまして影響を与えたのは、同じ大学の卒業生達との出会いでした。当時派遣された療養所の隣町の診療所には、カナダのトロントから災害救急を学んで帰国した林寛之先生(現福井大学医学部総合診療部教授)が勤務していました。自治医大の福井県人会の勉強会にお邪魔した際に、彼から当時はまだ普及していなかったトリアージの概念を教わりました。奇しくもその冬に阪神淡路大震災がありましたが、もちろんこの概念は知られておらず、ここで活かされなかったのが大変残念に思いました。
 もう1人、同じ若狭地域の名田庄村(現おおい町)の中村伸一先生が勤務していました。私が奈良県のへき地診療所に勤務しているときに、ある雑誌に彼の地域医療の活動報告が掲載されていました。当時私が抱いていた地域医療への思いと全く共通したもので、親近感を覚え一度会ってみたいと思っていたのです。
 福井に赴任して半年の1月16日の母校での学会でやっと彼と会うことが出来て、実際に話をしても「やはりこいつはすごい!」と言う印象を持ち福井に戻りました。その翌日の明け方、官舎で寝ていたら尋常ではない揺れを感じました。そうあの阪神淡路大震災の揺れだったのです。最初は美浜原発の爆発かと焦りましたが、テレビでNHK神戸支局の映像をみて初めてとんでもないことが起こったと知りました。残念ながら病院からの災害派遣隊には加われませんでしたが、大変な年となりました。
 その後しばらくして、福井県人会で中村先生と何度か顔を合わせるたびに意気投合し、名田庄村に集まろうということになりました。林寛之先生と県境越えたすぐの滋賀県朽木村に勤務していた同期生の高橋昭彦先生(現ひばりクリニック院長)、敦賀病院勤務医だった同期生で先代の名田庄診療所長の服部昌和先生(現福井県立病院健康診断センター長)ら5人で名田庄村の「新佐」と言う料理旅館で夕方6時ごろから飲み始め、とんでもなく話が弾み、気付いたら明け方の4時になっていました。私の中では明治維新の勤皇の志士の雰囲気で「新佐の夜明け」として心に強く残っています。
通常であれば、3年間ぐらいは福井で勤務するのですが、3月になって奈良県庁の健康局長から電話があり、「県立五條病院をへき地医療中核病院に指定するにあたり、へき地医療を支援する部署を新設し、部長としてやってくれないか」と言う内容でした。
 地元に帰れる喜びと同時に、卒業生の懸案だったへき地医療支援システムが動く喜びで「やりたいです!」と即答しました。が、医局派遣なので、教授の許可がないとお受けすることはできないと言うと「もう話はつけてある」と言うことで、平成7年5月から奈良県に帰還し、県立五條病院へき地医療支援部を立ち上げることになりました。
このへき地医療支援システムを高く評価してくれたのは、紛れもなく中村伸一先生でした。私自身としては、彼の名田庄に定着しての揺るがない地域医療に憧れを抱いていました。また彼からは健康学習学会にも導いてもらい、私が緊張せず聴衆に自分ごととして心に響くプレゼンが出来るようになったルーツとなしました。中村伸一先生は、後輩ではありますが師匠でもあり、同志でもあり、良きライバルでもあります。そして彼が力を注いでいる国保直診は、私にとっても地域医療の原点でもあります。

(平成30年12月)

岐阜県・県北西部地域医療センター国保和良診療所長
廣瀬 英生 先生


やぶ医者大賞を受賞して

「やぶ医者大賞受賞致しました!」とまわりのスタッフに言うと「えっ!?」 と百パーセントは祝福していない感じで驚かれます。一般の方(例えば友人、親戚など)に関しては、尚更であります。
この賞は兵庫県養父市(やぶし)が主催、日本医師会にも御後援頂いております。ホームページを参照しますと“「養父の名医の弟子と言えば、病人もその家人も大いに信頼し、薬の力も効果が大きかった。」と「風俗文選」にもあるように、「養父医者」は名医のブランドでした。しかしこのブランドを悪用する者が現れました。大した腕もないのに、「自分は養父医者の弟子だ」と口先だけの医者が続出し、「養父医者」の名声は地に落ち、いつしか「薮」の字があてられ、ヘタな医者を意味するようになったのではないでしょうか。
 「薮医者」の語源については、様々な説がありますが、文献に基づいた「薮医者とは、もともと名医を現す言葉であり、その語源は養父の名医である」というこの説が本当ではないでしょうか”ということでポジティブにとらえてよいと考えます。過去にも澤田弘一先生(鏡野町国民健康保険上斎原歯科診療所)、東條環樹先生(雄鹿原診療所長)など地域医療の分野で活躍してきたそうそうたる先生方が受賞をしております。
私は、自治医科大学を平成13年に卒業し、公立診療所を中心にさまざまな地域働いてきました。平成19年からは、国保和良病院(現国保和良診療所)に赴任しそこに和良診療所に義務年限2年を含めた約11年間従事し、通常の診療業務に加え、ヘルスプロモーション、地域での医学教育、地域での研究活動、多職種連携などを行ってきました。
郡上市和良町といえば人口1,700の地域で、名物は聞き鮎大会全国1位に3回輝いた「和良鮎」と蛍であります。また、地域ぐるみの健康づくりで有名です。1950年に中野重男先生が赴任して、湯下堅也先生、母校の先輩である後藤忠雄先生、南温先生が在籍されていたところです。一時期は健診受診率が9割を超えていたすごい!時代もあったようです。また、2000年には男性日本一にも輝いたという歴史もあります。病院(もしくは診療所)に来ない人も健康管理ができるヘルスプロモーションが地域医療の魅力の一つです。2002年より独自の健康福祉総合計画「まめなかな和良21プラン」策定して、2008年には中間調査、2013年には10年目の調査、今年15年目をむかえ、2回目の中間調査を再び行っています。私もこの計画に2008年から携わらせてもらっています。この計画策定後、男性における喫煙は、すべての世代において改善傾向。高齢者の方の地域での社会活動の参加(公民館の参加)割合も増加し、計画をもとにした健康づくりが寄与していると考えられます。
岐阜県内で地域をベースに「地域医療従事者の研究活動を活発化させ、地域医療の質の向上と発展に寄与すること」「卒業生間の情報交換と親睦」を目的に岐阜プライマリケア・地域医療研究ネットワーク(GP-COMERnetwork)の運営に関わっております。現在までに「臨床研修に関するminimal requirement」、「プライマリケア医に紹介された心筋梗塞患者に対する紹介内容の検討」、「プライマリケア施設における下部尿路症状の調査」、「子宮頚癌ワクチンに対する意識調査」という研究を遂行しました。私自身の博士論文は、当和良地域のデータをもとにして作成したものであり(日本の健康成人における心室性期外収縮と循環器疾患との関連について-JMSコホート研究より)、健康づくりでだけでなく疫学研究分野でも地域医療に貢献したいと思います。
「県北西部地域医療センター」の立ち上げに現センター長兼白鳥病院長でもある後藤先生とともに参画し、地域医療、総合診療に取り組む医師の支援が可能なシステム、中長期的に持続可能な、継続性のある地域医療体制の構築を図っております。
以上のことを若干評価されこの賞を頂いたと思われます。これを励みに今後とも地域医療にまい進していきたいと思います。
最後に本年7月8日未明この度の豪雨で和良介護老人保健施設、国保和良診療所の基礎部分が破壊され使用不可能となりました。当日はスタッフ総出の懸命な避難作業でなんとか乗り切りました。老健には、28名が入所しておりましたが、周辺医療機関の心温まる対応でなんとか受け入れをしていただくことができました。また、多くの関係者の方、同僚から励ましのメールを頂きました。復旧にはまだ時間がかかりますが、可及的速やかに復興ができるように努力していく所存です。
 
H30

(平成30年12月)

岐阜県・県北西部地域医療センター国保和良診療所長
廣瀬 英生 先生


やぶ医者大賞を受賞して

「やぶ医者大賞受賞致しました!」とまわりのスタッフに言うと「えっ!?」 と百パーセントは祝福していない感じで驚かれます。一般の方(例えば友人、親戚など)に関しては、尚更であります。
この賞は兵庫県養父市(やぶし)が主催、日本医師会にも御後援頂いております。ホームページを参照しますと“「養父の名医の弟子と言えば、病人もその家人も大いに信頼し、薬の力も効果が大きかった。」と「風俗文選」にもあるように、「養父医者」は名医のブランドでした。しかしこのブランドを悪用する者が現れました。大した腕もないのに、「自分は養父医者の弟子だ」と口先だけの医者が続出し、「養父医者」の名声は地に落ち、いつしか「薮」の字があてられ、ヘタな医者を意味するようになったのではないでしょうか。
 「薮医者」の語源については、様々な説がありますが、文献に基づいた「薮医者とは、もともと名医を現す言葉であり、その語源は養父の名医である」というこの説が本当ではないでしょうか”ということでポジティブにとらえてよいと考えます。過去にも澤田弘一先生(鏡野町国民健康保険上斎原歯科診療所)、東條環樹先生(雄鹿原診療所長)など地域医療の分野で活躍してきたそうそうたる先生方が受賞をしております。
私は、自治医科大学を平成13年に卒業し、公立診療所を中心にさまざまな地域働いてきました。平成19年からは、国保和良病院(現国保和良診療所)に赴任しそこに和良診療所に義務年限2年を含めた約11年間従事し、通常の診療業務に加え、ヘルスプロモーション、地域での医学教育、地域での研究活動、多職種連携などを行ってきました。
郡上市和良町といえば人口1,700の地域で、名物は聞き鮎大会全国1位に3回輝いた「和良鮎」と蛍であります。また、地域ぐるみの健康づくりで有名です。1950年に中野重男先生が赴任して、湯下堅也先生、母校の先輩である後藤忠雄先生、南温先生が在籍されていたところです。一時期は健診受診率が9割を超えていたすごい!時代もあったようです。また、2000年には男性日本一にも輝いたという歴史もあります。病院(もしくは診療所)に来ない人も健康管理ができるヘルスプロモーションが地域医療の魅力の一つです。2002年より独自の健康福祉総合計画「まめなかな和良21プラン」策定して、2008年には中間調査、2013年には10年目の調査、今年15年目をむかえ、2回目の中間調査を再び行っています。私もこの計画に2008年から携わらせてもらっています。この計画策定後、男性における喫煙は、すべての世代において改善傾向。高齢者の方の地域での社会活動の参加(公民館の参加)割合も増加し、計画をもとにした健康づくりが寄与していると考えられます。
岐阜県内で地域をベースに「地域医療従事者の研究活動を活発化させ、地域医療の質の向上と発展に寄与すること」「卒業生間の情報交換と親睦」を目的に岐阜プライマリケア・地域医療研究ネットワーク(GP-COMERnetwork)の運営に関わっております。現在までに「臨床研修に関するminimal requirement」、「プライマリケア医に紹介された心筋梗塞患者に対する紹介内容の検討」、「プライマリケア施設における下部尿路症状の調査」、「子宮頚癌ワクチンに対する意識調査」という研究を遂行しました。私自身の博士論文は、当和良地域のデータをもとにして作成したものであり(日本の健康成人における心室性期外収縮と循環器疾患との関連について-JMSコホート研究より)、健康づくりでだけでなく疫学研究分野でも地域医療に貢献したいと思います。
「県北西部地域医療センター」の立ち上げに現センター長兼白鳥病院長でもある後藤先生とともに参画し、地域医療、総合診療に取り組む医師の支援が可能なシステム、中長期的に持続可能な、継続性のある地域医療体制の構築を図っております。
以上のことを若干評価されこの賞を頂いたと思われます。これを励みに今後とも地域医療にまい進していきたいと思います。
最後に本年7月8日未明この度の豪雨で和良介護老人保健施設、国保和良診療所の基礎部分が破壊され使用不可能となりました。当日はスタッフ総出の懸命な避難作業でなんとか乗り切りました。老健には、28名が入所しておりましたが、周辺医療機関の心温まる対応でなんとか受け入れをしていただくことができました。また、多くの関係者の方、同僚から励ましのメールを頂きました。復旧にはまだ時間がかかりますが、可及的速やかに復興ができるように努力していく所存です。