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エディタ

診療所リレーエッセイ

 国診協 診療所委員会では、同委員会が管理する「診療所関係者メーリングリスト*」において、2018年11月よりリレーエッセイとして毎月持ち回りでエッセイを執筆しています。一時休載となったこともありましたが、現在に至るまでたくさんのエッセイが投稿され、現在も診療所の先生方によるリレーが続いています。
 先生方が診療所での日々の診療やご自身の体験から紡がれた素敵なエッセイを、メーリングリストだけでなく国診協ホームページでもぜひ公開したいとの声が集まり、こちらに掲載させていただくことといたしました。どうぞご自由にご覧ください。
*診療所関係者メーリングリストには、国診協の診療所関係者で、過去に診療所委員会など国診協本部の委員会・部会に関わった先生方や、地域包括医療・ケア研修会の『診療所が面白い』セッションに登壇された先生方を登録しています。

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(令和6年1月)

愛媛県・伊予市国保中山歯科診療所長
髙橋 徳昭 先生

 日本は地震大国で2011年~2020年でみるとマグニチュード6.0以上の地震は、全世界の17.9%が日本周辺で発生しているそうです。
 近い将来かなりの確率で発生すると言われている南海トラフ巨大地震について、改めて総合的な地震防災対策が必要ですね。
 
 さて、29年前の1月17日午前5時46分に発生した阪神淡路大震災はマグニチュード7.2の都市直下型地震でした。
 テレビの映像を見て何かお手伝いができないかを考えていたところ、仲間の歯科医師が、「地震が起きた時間帯が未明であったことから、入れ歯を就寝時は外していてそのまま失くしてしまい、避難所で食べるものが限られている方が数多くおられるのではないだろうか」という発想を聞かされました。
 その歯科医師は、たった2時間余りで入れ歯を0から作るシステムを考えついており、何とか現地で活かせないだろうかと模索していました。
 作戦をいろいろと考えていたところ、ボランティアたちによって民間の非営利団体『神戸元気村』が立ち上がったことを知りました。
 そこで仲間の歯科医師、歯科技工士を募って『神戸元気村』を頼って神戸入りして、私たちもテント生活をしながら避難所回りをしました。
 私たちが神戸入りをしたのは震災発生から1ヵ月が過ぎていましたが、ビルは傾き、木造家屋は潰れていて被災地を歩くと平衡感覚が無くなるほどでした。
 各避難所を訪ねて「入れ歯を失くされて困っている方はおられませんか」と叫んでも、誰ひとりも反応はありませんでした。
 「困っている方はおられないのかなぁ」、「勘違いだったのかもしれないなぁ」と感じながら、村長に相談しましたところ、『ローラー隊』で拾ってみようとおっしゃってくれました。
 『ローラー隊』とは、避難所や公園のテント、壊れた自宅で生活されておられる方に1日3回直接話を聞き、様々な不都合を改善できるようお手伝いする集団です。
 地域情報や物資の提供、水汲みや話し相手など身障者の家庭を中心に継続して訪問していました。
 『ローラー隊』による東灘区の避難所71か所でのアンケート調査の結果、震災によって入れ歯を失くした方は85名中51名。実に6割もの方が入れ歯を紛失しておられたのでした。
 私たちの集団は 『入れ歯救援隊』と称され、『ローラー隊』との連携で7日間で49名の方の入れ歯をつくることができ、たいへん喜ばれました。
 よく考えてみれば、どこの馬の骨かわからない者が、「お助けに来ました」と叫んでも信用してくれるべくもなく、普段からそばにいて親身になってくれる人にのみ心を開いてくれるのだという事をこの時に改めて学びました。
 非日常的な事態になった時こそ、まさに国保直診が目指す、保健・医療・介護・予防・福祉・生活支援・住まいなど、住民に対する日頃からの細やかな気配り、目配りが重要であると感じています。
 
 最後に能登地域の1日も早い復旧と復興をお祈り致します。

(令和6年2月)

診療所長
匿名


私が長く主治医をさせていただいていた高齢者が、残念ながら自死されました。

その方は長年独居でがんばっておられましたが、ご高齢になり「地域の人や遠方の息子に迷惑をかけられない。」という思いで施設入居を決断され、県外の施設に入居が決まりました。施設入居後帰りたい思いが募り、精神障害をきたし、施設で自死されました。(実際には施設職員や遠方の息子さんの努力、精神科受診等色々ありましたが、ここでは割愛します。)

1月の「若手のつどい※1」でこのことをお話した際に、能登の病院の先生が「能登から安全に医療が提供できる他の地域へたくさんの患者さんを送った。自死されていないといいな」とポツリと言われました。
新聞でも「二次避難が進まない」と報道されています。

確かにこの構造は似ているなと思いました。

本人は元の暮らしを望む。でも本人を若返らせることも、被災前まで時間を巻き戻すこともできない。
それなら周囲の人は住み慣れた地域を離れた方が安全、安心と考える。
それでも本人は「危険であっても住み慣れた地域を離れたくない」と思う。
正解のない問題ではありますが、私は多少危険でもなんとかチームで『一人ひとりが住み慣れた地域で暮らしていく』ことを支えていこうと思いました。

※1添付資料

(令和6年4月)

大阪府・豊能町国保診療所長
永川 賢治 先生

はじめまして、歯科医師の永川賢治(えがわけんじ)です。
少し珍しい経歴かもしれません。
東北大学災害制御研究センター(現、災害科学国際研究所)で津波に関する研究で学士・修士号を取得、イギリスの企業インターンシップ中に人生のパートナーと出会い、
西松建設、アクセンチュアでの会社員生活を経て、徳島大学歯学部社会人編入学致しました。
卒後13年間、4施設(神戸市立医療センター中央市民病院、市立池田病院、鳥取赤十字病院、市立伊丹病院)の歯科口腔外科勤務を経て当地に赴任、今春で5年目を迎えます。
廻り道の人生もまたよしとし、趣味の自然散策、森林インストラクター活動、海・山・川遊び、旅先でのグルメ探索、マラソンなどを楽しむ日々を過ごしています。

2年前の新潟での地域医療現地研究会に初参加し、それ以降、国診協のスタッフ、先生方に大変お世話になっています。
国診協・常務理事、岡山県・鏡野町国保上齋原歯科診療所長の澤田弘一先生より貴重なリレーエッセイ投稿の機会をご紹介頂きました。
思うまま記した雑多な長文で恐縮いたしますが、日頃の思いを込めた下記の項目について書いてみました。
一部でもご笑読頂ければ幸いです。

【内容】
 1.安心な歯科診療所へのこだわり
 2.歯科研修医の受け入れまでの経緯
 3.当診療所(歯科)のこれから
 4.歯科若手の会の立ち上げ状況
 5.歯科からのお願い:化学療法患者の口腔ケアへの思い
 6.災害歯科医療への思い
 7.豊能町の紹介
 8.大阪府の国保診療所と当診療所の状況

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1. 安心な歯科診療所へのこだわり

診療所赴任前の最初の仕事は老朽化した歯科医療機器の更新器材の選定でした。
当初、シンプルな診療チェアと歯の撮影に用いるデンタル、および顎全体を撮影するパノラマX線機器だけの予定でありましたが、現在の医療水準にあった診療室にしたい思いから必要性を訴えて主に下記のものを追加して頂きました。
特に歯科用CTと卓上クラスB滅菌器はやや高価な器材でありましたが、後述の通り必須と考えています。

 主な更新器材のリスト:
・車いす移乗が容易、配管内の水を清潔にできる機能的で快適な診療チェア
・エアロゾル対策用口腔外吸引装置
・洗浄、滅菌システム一式
   ‐次亜塩素酸水生成器
‐大容量超音波洗浄器
‐自動熱水洗浄器
‐クラスB滅菌器
・車いす騎乗のまま撮影可能な歯科用CT
・生体モニター(血圧、心電図、脈拍数、動脈血酸素飽和度)
・医科電子カルテと同機能を有する歯科電子カルテ・レセプト請求システム
・在宅歯科処置が可能な往診キット

歯科用CTについて
歯科の治療対象である歯、特に臼歯部は歯根の形が複雑です。正確な診断には、歯の構造や周囲の病変範囲、三叉神経の分枝や上顎洞など隣接する重要組織との関係を正確に把握することが必要です。
さらに歯の内部の神経のサイズは部位により0。5mm以下と微小であり、医科用マルチスライスCTではスライス幅が大きく正確な診断ができない場合があります。熟練の歯科医師は単純X線写真の読影と臨床経験で“想像的”診断が可能なケースも多くあると思いますが、歯科用CTがあれば経験年数の浅い歯科医師でも“的確な”診断を得やすいです。

クラスB滅菌器について
詳細な説明は成書に委ねますが、複雑な形で、微小な歯科用治療器具を患者ごとに個別包装したものを理論上滅菌できるのはクラスB滅菌器と考えられています。滅菌器はヨーロッパ規格に基づき滅菌力よってクラスN、S、Bに分類されており、一般的にはクラスN(未包装の固形器具に使用可能、滅菌後は保管せずに使用)滅菌器が使用されています。
クラスSは、クラスNの滅菌可能な各種器具に加え、滅菌器メーカーが指定した非包装の中空部など特定器具の滅菌が可能です。
クラスB滅菌器は、清潔治療に関心の高い一般開業医を中心に徐々に普及しています。最大のネックは購入費用であり、クラスN滅菌器が数十万円であるのに対して、クラスB滅菌器は100万円を超えるものがあります。
しかしながら、公共診療所において口に入る治療器具に対してどれを選択するべきか明らかです。

 ここに挙げた器材のリストは、過疎地の歯科診療所に過剰設備であるという考えも予想されます。しかしながら、選択の余地がない住民に対して、医科レベルの最低限の安心と早期診断、診断精度の向上、画像検査のための2次医療機関への移動やそれに伴う介助などの社会的コスト、歯科スタッフのマンパワーの限界という観点から長期的には安い投資です。
先述の器材導入に対する関係者の皆様のご理解を賜れば、その地域の歯科医療水準を早期に向上させることが可能です。

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2. 歯科研修医の受け入れまでの経緯

“鉄は熱いうちに打て”、卒後臨床研修中の歯科医師にとって地域歯科医療を担う国保診療所での業務を見て頂くことは貴重な機会になるという確信から、最寄り2次医療機関である大阪府池田市にある市立池田病院の歯科口腔外科研修医に見学実習を提案し、2年前より受け入れを行っています。地元の美味しいランチを食べ、外来や在宅診療を見学して頂くという一日だけの内容でありますが、予想以上に好意的な反応が得られ、また地域歯科医療に対する理解を深めてくれています。

昨年秋に、臨床研修指導歯科医の研修を受講することができたため、当診療所は、市立池田病院歯科口腔外科の協力型Ⅱ(5日以上30日以内の臨床研修医の受け入れ、要指導歯科医資格)施設として正式に登録頂き、令和6年度中に5日間の地域歯科研修を行う予定です
内容は、総合病院歯科口腔外科では経験しにくい一般歯科治療(模型実習含む)や在宅歯科診療の経験、地域包括システムの実際を理解してもらうために町内施設の見学や他職種による在宅訪問の同行などを考えています。
微力ではありますが、地域医療に理解ある歯科医師育成の一助となりたいと思っています。

 余談ですが、臨床研修指導歯科医になるための研修は、大学に所属する歯科医師が事実上優先されており、大学との関係が乏しい歯科医師に対する受講の枠が極端に少ない現状です。私の場合、北海道から鹿児島まで全国の歯科大学に申し込みを行いましたが、数年間落選が続き、窮余の末、母校の徳島大学の臨床研修担当教授に直接相談して受講が実現しました。 
国診協内で臨床研修指導歯科医研修の実施、または歯科大学や歯科医師会主催の研修への国診協推薦枠の依頼などのサポートをして頂けると、私のような活動が可能になる施設が増えるのでないか、国保診療所歯科と若手歯科Drとの交流の機会が増えれば、有望な人材獲得にもつながると信じています。
若いDrにとっては貴重な機会になり、診療所のスタッフ、行政担当者にとっても楽しく有益な機会となりうると考えます。

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3.当診療所(歯科)のこれから
 車で30~60分圏内に複数の2次、3次医療機関があり、町内西部地区にも複数の歯科医院、東地区にも1か所の歯科医院が存在する都市近郊の当診療所(歯科)のあるべき姿に悩んでいました。また、赴任直後のコロナ禍という制限された状況に加え、前任者から引き継いだ地元歯科医師会や周囲の民間施設とのやや希薄だった関係の再構築にも時間を要していました。
コロナ感染症の状況をみながら各地の先輩Drの診療所を訪ね、学会などでお話を伺う中で感じたことは、結局のところその地に必要なことで自分ができることを地道に全力ですること、仲間を増やし、そして地域からの信頼ポイントをこつこつ集めることの重要性を感じています。長年、地域包括ケアを担ってきた諸先輩の思いを引き継ぎつつ、この地に求められる地域貢献を自分ができる形で進まなければならないと感じています。

具体的には、当地における移動困難な患者、開業歯科医院が対応困難な患者を中心に、病院勤務経験を活かした地域の1次および1.5次歯科医療機関になること、ケアマネージャーや訪問看護師との積極的なコミュニケーションを通じて在宅歯科診療体制を充実させること、行政の既存事業のサポート、新たな他職種が集まる機会の提供などを主な役割と考え、積極的に行っていくつもりです。
 
 近年の成果としては、高齢者の保健事業と介護の一体化事業では昨年度より看護師、栄養士、行政歯科衛生と協力した事業を開始し、新規患者数や紹介による在宅歯科診療件数も増加傾向を維持しており少しずつ地域との関係が構築できていると感じています。
あらゆる世代の様々なライフステージに対応できる歯科医師になれるよう研鑽を継続していきます。
引き続きご指導、ご鞭撻をお願い申し上げます。

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4.歯科若手の会 立ち上げ状況
 “医科若手の会”世話人代表の廣瀬英生先生(県北西部地域医療センター国保白鳥病院)にアドバイスを頂き、国保診療施設の勤務歴が短いという意味での若手の私を含めた4名のコアメンバー(大分県・姫島村国保診療所:渡邊啓次朗先生、香川県・三豊総合病院:後藤拓朗先生、岐阜県・中津川市国保蛭川診療所:樋田貴文先生)にて昨年末に活動を開始しました。
現在、10名程度の初期活動メンバーが集まり、本年2月にZoomでの初顔合わせを終え今後の活動内容を相談しています。
歯科若手の会の参加基準は下記の3つを想定しています。

① 概ね50歳以下
② 概ね卒後25年以下
③ 概ね国保施設勤務15年以下

いずれかを満たす先生にご参加をお願いし、日々の診療業務に関する相談、勉強会、交流イベントなどを行い、国保施設での勤務がより充実したものになる機会としたいと考えています。
アナウンスがありましたら該当の歯科医師へ参加のお声がけをお願いします。

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5.歯科からのお願い:化学療法患者の口腔ケアへの思い
 がん化学療法に関わる医療スタッフの多くは、口腔トラブルのために化学療法が延期、中断になった患者の経験があるはずです。
口腔がん治療に直接関わり、他科のがん患者の口腔管理に多く関わった経験から、がん化学療法中の口腔管理は、治療遂行上必須であると考えています。化学療法中の患者の口腔粘膜炎に対して事前の対策もなく、ステロイド軟膏のみを投与し、治療スケジュールを変更するケースに遭遇し残念に思うことがありました。
国診協の医療スタッフには、そのようなことがないように強く願います。化学療法前に十分な時間を設け、個人の口腔内に状況に合わせたケアプランを説明する必要があります。
ポイントは以下の通りです。

① 疼痛管理
② 感染予防
③ 乾燥予防
④ 歯、食材、歯ブラシヘッド部などによる摩擦予防
⑤ 食事・栄養管理

これらの徹底的な管理により口腔粘膜の保護を図ることで大切です。“摩擦予防”が欠落している口腔粘膜炎対策を散見するのでご注意願いたいです。化学療法時の口腔管理は、患者QOL、治療完遂性、DPCなどすべての面において有益であり行うべきです。少し訓練すれば口腔内の治療や保護シーネ作成などを除き歯科医師でなくても可能です。
以下に、患者に行っている内容を示します。事前にしっかり説明することで患者の積極的な協力が得られ、口腔トラブルによる治療の延期や中断のリスクを低下できます。

1. 口腔内診査、応急治療
排膿や歯肉腫脹を伴う歯周炎、カンジダ症など感染病巣の治療、不適合義歯の修正や歯と補綴物の鋭縁の調整、過剰な咬合圧による歯のクラックや摩耗状態の確認、粘膜の確認(増悪因子となる舌、頬への歯の圧痕有無、粘膜保護に有益な唾液の量や質のチェック)、プラーク、舌苔付着状況の確認

2. 口腔粘膜炎の状況(症状なし・軽度、中等度、重症)に応じて、ケア内容ごとの実施時刻を一覧にして患者に渡します。
ベッドサイドや自宅に掲示してもらい、可能な範囲での実施を促します。以下にケアの項目に対する指示内容を示します。

・歯みがき:歯ブラシの種類、硬さ、方法、頻度、歯磨剤種類、
 電動歯ブラシや楊枝などの使用状況確認と中止タイミング
・含嗽:方法、頻度、疼痛時は体温に加温した生理食塩水を使用
・摩擦予防用ジェル塗布:頻度、部位(乾燥部、歯に接する可動粘膜)
・粘膜保護用シリコン製マウスピース装着:タイミング、使用方法
・加湿、保湿:保湿スプレー、ジェルの頻度、マスク装着要否、湿度管理、
 口呼吸の防止および飲水量・尿量の確認

3. 症状の憎悪に“先立って”口腔粘膜にやさしい、やわらかい食事形態に変更

4. 経腸栄養剤などの栄養サポートを適宜行う。食事形態ごとのレシピや、補助食品のリストを事前に案内

5. 適切な疼痛管理を主治医に早めに依頼し、キシロカインゼリーなど用いて積極的な除痛を図り、痛みによる食思不信を防ぎます

6. 口腔管理は自分でできるケアであり、化学療法中の栄養維持、感染症予防に直結する重要なケアであること、
治療開始前から継続的にケアすることで発症自体は防げなくても憎悪を予防し、回復を促進できることを説明します

7. 困ったらすぐに相談できることを説明し安心させます

口腔トラブルによる化学療法の延期や中断が少なくなることを願ってやみません。
上記内容の一部でも参考になれば望外の喜びです。

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6.災害歯科医療への思い
 歯科医療従事者が発災直後にできることは災害関連死の防止と食の支援です。阪神大震災以降、避難所での誤嚥性肺炎予防のための口腔ケアの必要性が認知されるようになり、避難所へ口腔ケアグッズや含嗽用の水などの配布が比較的早期に行われるようになりました。
しかし、例えば被災して義歯をなくした人や施設入所の高齢者など咀嚼・嚥下機能に問題がある方に対する災害時の食支援の理解や対策はまだ進んでいないように感じます。発災直後、幕の内弁当を食べることができない場合があることを認識しておく必要があります。
高齢者の避難バッグに口腔ケアグッズと水の他に、使用していない旧義歯や飲み込みやすいレトルト食品をいれておきたいと思います。

 この分野における検討すべき課題は多いと思います。国診協の会員施設が被災したときに相互援助できる仕組みなどありますでしょうか。
困ったときはお互い様の精神で国診協のスタッフにサポートしてもらえれば、これほど心強い味方はいないと切望します。
歯科医師になってから継続しているICLS救命救急インストラクター活動、その時々の理解ある関係者にサポートして頂き実現した
業務調整員として参加したDMAT訓練、臨床法歯学コース受講、災害歯科医療の事例研究など、これらを通じて少しずつ模擬経験を積んできました。いざその時が来た時に何かしらできる自分でありたいと考えます。関与している豊能町の避難計画に上記のような災害弱者への早期からの対応を含むものになるよう働きかけを行っていきたい。

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7。豊能町について
 豊能町は大阪北部、兵庫県、京都府と接し、人口約18000人、高齢化率48。2%の町です。人口減少率の基準で過疎地域に指定されています。東西に広がる町は妙見山で隔てられ、他市町を経由しないと往来できない特異な立地にあります。町民の約7割は、能勢電鉄の沿線で宅地開発された西部地域に、残りは山地、田園が広がる一次産業中心の東部地域に住んでいます。診療所はその東部地域にあります。
東部地域は標高300~400mに位置し、大阪市内との気温差は4~5度、冬は積雪もみられます。府内とはいえ、町内にはガソリンスタンドがなく、唯一の整形外科医院が昨年末に閉院するなど高齢化、人口減少に付随する諸問題が生じています。2次、3次医療機関はなく、
隣接する池田市、箕面市、茨木市に依存しています。

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8.大阪府の国保直診診療所の状況と当診療所について
大阪府には国保直診診療所が3か所あり、うち2か所は同じ豊能郡内にあります。医科若手の会世話人の宇佐美哲郎先生が勤務する豊能郡能勢町国保診療所と私が勤務する施設であり、内科・歯科を有するのは当町のみであります。町内の東部地区を中心に半径約4~5㎞圏内を主な医療圏(能勢町東部および京都府亀岡市西部を含む)としています。内科医(計3名、日替わり担当制)、常勤歯科医師1名、看護師3名、歯科衛生士3名、事務スタッフ4名(うち1名常勤)で日常診療を行っています。


ご精読誠に有難うございました

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(令和5年1月)

県北西部地域医療センター国保白鳥病院 副院長
廣瀬 英生 先生

 2021年12月に国診協若手の会を立ち上げましたので報告します。

 国診協施設に勤める若手の先生方は、地域医療独特の悩み、壁などを相談する機会がなかなかありません。またそもそも国診協施設とは何かを知らない方も結構いる様です。そういった背景もあり、若手に国診協の活動をもっと知ってもらい、ひいては国診協の活動に興味をもち将来の国診協を背負っていく人材を支える目的で「国診協 若手の会」が総務企画委員会の下部組織として立ち上がりました。
 若手の会の加入条件を医師経験何年目までとするかは議論がありました。長すぎても短すぎてもうまくいかず、例えば10年目以内というようにしてしまうと残念ながら該当する方は国診協施設ではあまりいなくなってしまう。今後国診協を支える人物となりうることを目的とするということを照らし合わせても経験年数25年以内であればよいとした。また国診協以外の施設で同時に働いている方も多いと考え、主たる勤務施設が国診協の方とした。今後はいろいろな職種の若手をメンバーに入れたいが、まずは医師のみとして組織固めをしたいと考える。会の運営がスムーズにいけば、理学療法士、歯科医師、栄養士など様々な職種が入り活性化につなげたいと思われます
 現時点での活動としては、①若手のつどい これは月に1回各人のお悩み相談とか気軽にその場の雰囲気で話が盛り上がる感じになってます。②若手の勉強会 若手の会からでて、もう少し深堀したいテーマを勉強回答形で開催されました第1回目は「診療所経営」ということで川尻白鳥病院事務局長から講演とグループワークを行い、講評を博しました。本年2/24には「行政の付き合い方」というお題でまた行いたいと思います。③学会ではカフェコーナーを設け、若手の方、ベテラン医師を問わず語り合う場を設置しました
 若手の会のメンバーの中では、診療所で勤務している方が多いです。ぜひぜひ皆様ご支援のほどお願いいたします

(令和5年2月)

奈良県・明日香村国民健康保険診療所長
武田 以知郎 先生


ドキュメンタリー映画「明日香に生きる」

 コロナ禍の令和3年秋から約400日をかけて、明日香村で撮影された溝渕雅幸監督のドキュメンタリー映画「明日香に生きる」が、いよいよこの春から全国で公開されます。
溝渕監督は奈良県在住で、「いのちがいちばん輝く日」、「四万十いのちの仕舞い」、「結びの島」など、いのちに寄り添うシリーズで数々の作品を手掛けておられます。
 今回、明日香村を選んでいただけたのは、別の上映会の懇親会で意気投合したのを機に、それとなく次は明日香だよと脅されていました(笑)。過去の作品の主人公の医師のように
確固たるポリシーや実績がない中で、私個人より明日香という地域が主役ということで引き受けることにしました。全国的に有名な明日香村ではありますが、実は奈良県立医科大学に近く、医学生や研修医をたくさん受け入れてきています。さらに明日香村国民健康保険診療所の診療内容は総合診療そのもので、総合診療専門医の専攻医も今回の映画の目玉になりました。一般住民が観る中で、「総合診療専門医」の具体的な役割を理解してもらえたらと期待しています。その他、監督の他の作品ではあまりクローズアップされていなかった看護師や訪問看護師、ケアマネ、訪問リハビリ、訪問栄養士、臨床心理士など多職種のチーム医療が描かれています。歯科との連携は、早々に急変されてお蔵入りになってしまったのが残念でした。
 映像は、Dr.コトー診療所のような感動させるような演出はなく、私の日常診療が淡々と描かれています。カメラに向かってうんちくを語ろうものなら、「カット~!!」なんて叱られる?ような感じで、そのうちカメラが入っているのをほとんど意識しなくなりました。
だから余計にリアリティがあり、その風景を紡いでものがたりを作り上げています。感動するようなお看取りもたくさんありましたが、撮影NGだったりあえて使われなかったシーンもたくさんありました。切り詰めて切り詰めて濃縮しても2時間の超大作となっています。国保診療所が舞台なので、是非皆さんもご覧いただければありがたいです。(私には一切の収入はありませんが(笑))  2月24日の奈良県橿原市を皮切りに関西から関東、そして全国に展開される予定です。
 以下に、映画に際しての私のメッセージを紹介しておきます。  

*日本人の心のふるさと、明日香村には身も心も癒される空気が流れている。のどかな農村風景の奥に、かつて日本の都として栄え、大化の改新など多くの歴史的な動きがあったことに想いはせると、また違った景色が心に映るだろう。
 そんな地に導かれ、十数年前に診療所に赴任した。そして今、子供たちは青年に、元気だった高齢者が旅立つ姿に時の流れを感じるとともに、いくつもの“いのちのバトン”が受け継がれていく場面を想起する。明日香村の歴史から考えると、私の居る十数年は僅かかもしれないが、その間も医学は進歩し、私の子供時代に描いたお医者さんとはずいぶん違う医療を担うことになってしまった。しかし、いのちのバトンだけは変わらずに受け継がれていく。
 その昔、医師と看護師と産婆さんだけだった地域医療は、今や多くの制度と多くの職種に支えられ、多様な選択肢が用意されている。そして医療自体も臓器別、専門細分化から改めて総合診療やかかりつけ医など、多様性に寄り添える医療の必要性が謳われるようになった。明日香村には高度な医療はないが、村民のいのちに寄り添い、総合性を持ちながら身近で優しい医療を提供できる、昔ながらの“お医者さん”を目指している。
 今回溝渕監督と意気投合し、明日香を撮っていただけることになったが、正直在宅医療や総合医療の分野では特に秀でたものはない、今やごく普通の地域医療の姿だろう。ただ映画の中にたくさん登場する若き医師達(総合診療専攻医や研修医)が、大学病院では経験できない地域医療のリアリティの中で何を感じたかを視聴者にも一緒に考えていただけるだろう。溝渕監督と言えば、いのちに寄り添うとともに、美しい風景描写が定評だ。明日香は誰が撮っても美しい絵になるが、私が紹介する景色には興味を示されなかった。きっといのちのバトンにつながる生きた明日香の姿が描かれ、その映像はみなさんの心に心地よく焼き付くだろう。

(令和5年3月)

岡山県・鏡野町国民健康保険上齋原歯科診療所長
澤田 弘一 先生

新たな保健活動~~~~~
 
 当地域も少子高齢化が進んだため、8年前の合併前の旧4町村のうち旧3町村にそれぞれあった幼稚園、保育園、小学校および中学校が休園または休校を経て、閉園・閉校になりました。その結果、山間部である私が勤務している二つ目の診療所近くの小学校および保育園の校医を来月から担うことになりました。
 以前に校医を務めていた中学校・小学校および幼稚園では、赴任当初、口腔内は劣悪であり、子供用の入れ歯を作ることもありました。その後、3年後ぐらいには、う蝕や歯肉炎の根絶が達成でき、20年経ちました。その哲学は、教員の移動などが原因で学校が合併しても他の地域には受け継がれていません。
 子供の口腔内の改善は、学校、家庭、地域の健康改善に対する協力があって、その後に子供の存在があります。
 校医をする新しく統合された小学校と保育園の子供が治療に来られ、診療所で診ることがありましたが、課題が多いことを痛感していました。さらに、先日養護教諭から劣悪な口  腔内の健診データを見させてもらい、改善する良い機会をいただいたと思っています。
 一つ目の診療所近くの校医の時には、①教員への講義 ②毎月の保護者との現状と課題解決の教室 ③健診の精度向上(水平位での健診 経年的健診 家族歴 学業運動状況 全身疾患特に肥満) 唾液検査(宿主 細菌) ④健診を年1回から2回 ⑤口腔内写真撮影 模型採得 自ら評価 ⑥年3回の授業(細菌学 免疫学) ⑦文部科学省の歯と口の健康づくり指定校(2年間) をしました。これらは、教員、保護者そして地域の代表者との会議の中で次々生まれたもので、決して歯科関係者からの提案ではありませんでした。
 しかし、今回の地域住民性(損得感情・ネガティブ)が以前の地域(紳士淑女)とはかなり異なっているので、困難が予想されます。理由の一つは、40年上ダム建設に反対したあげく、ダムが完成したため、半分以上の住民が補償金をもらって町外に出たため、人との関係が絶たれたことが原因による自殺が県では1位、全国でも上位の地域です。
 以前の地域でもなかなか紛糾する会議の連続でしたが良い思い出です。会議に参加をされていた大人も定期的に現在も診療所を利用してもらっています。経営的にもありがたいです。その時分の子供たちも帰省時には、健診に来て、レントゲンや口腔内写真を自分のスマホに保存し、自分で健康管理を行ってくれています。
 子供の口腔内は、生え変わりや炎症が起きやすいため、観察をする動機をつけてあげれば楽しいものです。しかも鏡ひとつで、いつでも自分が名医になれます。
 歯磨き指導も少しはしますが、細菌学や免疫学の劇をしながら、以前のように健康づくりの基礎づくりの一助になれることを今から楽しみにしています。

(令和5年4月)

愛媛県・伊予市国保中山歯科診療所長
髙橋 徳昭 先生

「オールラウンドプレーヤーになりたい」

春ですねぇ。

とりわけ桜や菜の花、芝桜が満開です。
桜は1本の木だけでも見事なパフォーマンスを醸し出してくれます。
春の花のスーパースターです。
WBCでMVPを取った大谷翔平選手のようです。
一方で菜の花や芝桜は数本では大したことはなくても、絨毯のように密集するとものすごく映えますし、桜をなお一層際立たせてくれます。
差し詰め名脇役でしょうか。
WBCですごい投手陣の支えとなったブルペン捕手のようです。
当方にも「黄色い丘」と銘打った地区があり
(ご興味がある方は、愛媛、伊予市、黄色い丘で検索してください)、ミモザと菜の花の黄色が目の中に飛び込んできて、またフジバカマもありアサギマダラも飛来して心癒されます。
地元の住人(元保健師さんとそのご主人)が約10年をかけて少しずつ花の咲く面積を拡張して、今は結構な名所となっています。
この保健師さんは伊予市と合併前の旧中山町で住民健診率9割強を何十年も保持してこられたやり手です。
私もいろいろとご指導いただきましたが、ご退職後もマルチな才能を発揮され、保健事業で培ってこられた地道な活動力と豊かな発想力を地域おこしでも発揮されています。
さて、私たち国保直診の診療所に勤務する医療従事者もオールラウンドプレーヤーとしてのマルチな能力を持ち合わせているのではないでしょうか。
国診協の理念である地域包括医療・ケアは、言うまでもなく保健、医療、介護、福祉、地域づくりも含めたもので、その従事者は多方面での能力を発揮するユーティリティープレーヤーでもあります。
たとえて言うなら陸上競技の十種競技をこなしているような感じでしょうか。
100m走やマラソンなどの目立つ競技のスペシャリストも素晴らしいですが、一人で複数の種目をこなすため十種競技優勝者は「キング・オブ・アスリート」と呼ばれるそうです。
医療において病院では、ある臓器に特化したスペシャリストや神の手も必要です。
が、私たち国保直診のある中山間部、離島といった環境においては、これから2040年くらいまで増え続ける高齢者、要介護高齢者に寄り添っていく、どんなポジションでもこなすオールラウンドプレーヤーが必要だと思っています。
私事で恐縮ですが、昭和61年から国保中山歯科診療所、合併後の伊予市国保中山歯科診療所に勤務して37年が過ぎ、定年(70歳)まで残り3年となりました。
歯科医師として保健、医療、介護、福祉、地域づくりにいろいろ顔を突っ込んできました。何を成し遂げたということはないのですが、国保直診でなければできないような種々の経験をさせていただきました。
キング・オブ・アスリートに至るのは無理でも、菜の花や芝桜のように名脇役として、またオールラウンドプレーヤーとしてこの地域で仕事ができればこの上ない幸せだと思っています。

(令和5年5月)

和歌山県・紀美野町国民健康保険国吉・長谷毛原診療所長
多田 明良 先生

私を地域へ導いたもの それは・・・
 
 私を地域に導いたものはエコーといっても過言ではありません。
 エコーは一つの検査機器に過ぎませんが、自分の医師人生をあまりに大きく変化させたものであり小児科医としての自分から、へき地診療所での総合診療に繋げた主犯格でもあります。もちろんマイポケットエコーを購入しています(妻には繰り返す家族会議で口説き落とした、いや諦められた?!)。振り返ると、医師3ー4年目、小児科医として修練していた飯田市立病院での経験がとても衝撃的でした。腹痛の小児患者が来れば24時間対応で診療放射線技師がエコーを行ってくれました。そしてその技術は素晴らしく、教科書でみるような典型像が次々と画面に映し出されました。そんな技師のエコー所見をもとに診断した小児科医の自分は名医!とさえ過信させてくれました。
 しかし5−6年目で小児科医として派遣された地域中核病院では様相はかわりました。小児のエコー検査を検査室にオーダーしても、経験が少なく厳しいという返答だったのです。これはこの病院に限ったことではなく、小児のエコーはハードルがある施設が多いと思います。成人とは疾患が異なることに加え、乳幼児期はじっと検査を待つことが難しい場合も少なくありません。とはいえ自分のエコー技術は未熟であり,CT検査に頼らざるを得ませんでした。被曝が・・・ともやもやする気持ちの反面、それを覆せない自分の技術にやるせない気持ちになったのを強く覚えています。
 そこから独学の日々でした.バイブルにしていたテキストの著者の先生に不躾にも直接電話でご相談をさせていただいたり、他県のハンズオンセミナーを探して受講しては、自分でまずはCTの画像と見比べながら独学で学びました。
 学ぶスイッチをいれれば不思議とそういった症例は舞い降りてくるものです。虫垂炎だけでなく、同じく右下腹部痛の回腸末端炎,細菌性腸炎もありありと肥厚した壁が描出されるのも衝撃でした。胃潰瘍をエコーで診断したケース、新生児の消化管アレルギー、心臓,腹部だけでなく頸部リンパ節腫大しか目立たない川崎病、おたふくと思いきやの化膿性頸部リンパ節膿瘍など頭頸部にも多く利用しました。
 エコーとは全身に利用できるのだとその当時から身をもって感じるようになりました。またその頃から医療雑誌や書籍で「POCUS」,「ちょいあてエコー」という文字を見かけるようになってきました。
 POCUS Point of care 超音波 =ベッドサイドで焦点を絞って行うエコー
 という意味で、主に医師が主体となって、疾患の鑑別,治療の決定的要因となる所見のみを抽出して行うエコー検査です。一般に病院で行われる系統的超音波(腹部であれば腹腔内臓器をくまなくチェックする)とは一線を画します。
 
 地域での全科当直はPOCUSの必要性を強く感じる場でした。
 小児科医として数年過ごした自分にとって全科当直は緊張感がありました。私の地域では心臓血管外科、脳神経外科など診療科の制限はもちろんですが、さらにCTなど画像検査をオーダーする場合は診療放射線技師が自宅待機のオンコール制だったのでときには30分程度の時間を要する場合もありました。ある深夜、60代、胸痛、背部痛、おまけに血圧低下の方が搬送されるとの連絡がありました。顔面蒼白なのは患者さんなのか自分なのかわからないくらいだったと思いますが、到着後看護師がモニターを装着している間にすばやく肺、心臓のちょいあてエコーを行い、心タンポナーデ、上行大動脈拡大を見つけました。搬送してきた救急隊には、「転院搬送があるので少し待機をお願いします」、オンコールの循環器内科医には「大動脈解離を疑いますが、心タンポナーデでショックもあります」と連絡したところカテ室スタッフを招集し心嚢穿刺の準備を行うことになりました。心嚢穿刺後バイタルが安定した患者さんは高次医療機関へ搬送され手術となりました。遠方から技師さんを呼び造影CTを行ってからの連絡だったらどうだったのかと考えるとPOCUSによる治療までの時間短縮効果を強く実感するケースでした。
 このように地域医療とエコー・POCUSの親和性を強く感じながら,義務年限後半に結婚協定で和歌山県にわたり,へき地診療所での勤務が始まりました.
 小児科中心の世界から、高齢の方中心の多併存疾患の診療に変わり内科医の妻や自治の同級生にも相談しながら恐る恐る慢性疾患の診療を広げていく過程はたしかに苦労しました。ですがその一方で小児科時代と同様、一人の患者さんに対して総合的な診療を展開でき、答えの無い難問を多職種の方と協力しながらベスト・ベターな選択肢を探る過程はとてもやりがいを感じるようになりました。
 このようなへき地医療の現場でもやはり急性疾患に対するPOCUSはとても有用ですが,それ以上に大きなPOCUSのニーズと感じていたのは膝痛,肩痛,腰痛などの運動器診療でした。外来患者さんのほぼ7−8割といっていいほど運動器の愁訴がある一方で,結局治療としては大量の湿布や痛み止めに終始し,ポリファーマシーを後押しするような自分のやり方をなんとかできないのかと悶々としていました。
 そんな当時NHKで放送していたドクターGで、隠岐島前病院の白石吉彦先生がエコーを駆使して外来で運動器診療を行っている姿を拝見しました。
 膝や肩,腰のよくある訴えに対してエコーで解剖を確認しながら安全かつ効果的に注射を行っており、まさに当時の自分のニーズにぴたりとハマる内容でした.これはいますぐ習得しなければならない手技だと感じましたが、運動器エコーのセミナーはそのころから整形外科の先生方を中心にすさまじい人気でなかなか予約できませんでした。しかしながら幸運にも(同じ自治医大の白石先生の後輩ということでコネを使い・・・)広島で開催されていたエコーセミナーに滑り込み、その後試行錯誤しながら現場で実施していきました。
 最寄りの整形外科まで車で約1時間という距離でもあったため「先生五十肩も見てくれるんか」「ここでもこんな注射してくれるんじょ」と患者さんも喜んでくれました。その他,在宅で転倒された方の四肢の骨折や肋骨骨折もエコーで判断したり、関節リウマチの患者さんの病勢もチェックでき有用でした。簡単にCTやMRIが撮れないへき地診療所で悩ましいめまいや頭痛の症状についても、肩こり・首こりが原因となっている場合はエコーガイド下ファシアハイドロリリース(エコーガイドで行う生食主体のトリガーポイント注射)が著効する場合も多く、とてもやりがいを感じました。
 
 現在主戦場としているへき地診療所ではPOCUSは診察室だけでなく在宅でもポケットエコーをフル活用しています。場所や時を選ばず、そして症状によっては領域横断的に施行することもでき、いまやなくてはならない診療の相棒です。これを地域の在宅現場で医師一人しか実施しないのはもったいないという思いから、ここ数年は地域の訪問看護師とポケットエコーを用いた連携をトライしています。
 現在の主な焦点は排尿や排便トラブルに対する排泄ケアエコーです。
 おしっこがでない→導尿、便が出ない→浣腸、摘便と安易なアルゴリズムにならないよう訪問看護師がエコーを用いて適切なケアを選択できるようにしています。ご家族が介護を断念する大きなきっかけにもなりうる排泄トラブルに対して、エコーを活用して地域の医療介護の質を底上げすることができればと考えています。
 
 最後に宣伝です。
 このようにPOCUSは地域医療でこそその魅力を発揮してくれるものと感じていますが、一方POCUSを含むエコー技術は卒後まとまって勉強する機会がないという声を多く耳にします。そこでご紹介ですが、日本ポイントオブケア超音波学会は臨床現場ですぐに活用できるエコー(POCUS)を集中的に学ぶ学会です。
 次回学術集会の第16回ポイントオブケア超音波学会は2024年7月27日(土)〜28日(日)、国立国際医療研究センターで開催されます。
 本学会学術集会では様々な領域のハンズオンセミナーをこの2日間で集中して受講することができるのでおすすめです。
 また学会のWebページでは定期的にPOCUSに関するオンラインセミナーが開催されており、学会に登録するとオンデマンドでいつでも過去のセミナー内容を視聴することができます。POCUSを学びたい先生方、あるいは指導を担当される先生方もご興味のある方はぜひご入会ください。
 
 冗長な内容にもかかわらず最後までお読みいただきありがとうございました。
 今後も引き続きご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。

(令和5年7月)

秋田県・にかほ市国民健康保険小出診療所長
和田 智子 先生

 何を書こうかと考え、診療所のみんなに、最近あったうれしいことは無いかと尋ねました。
 いろいろな意見が出ましたが、最終的に、新型コロナウイルスワクチンの個別接種を当診療所で行っていることで、当診療所に通院していなかった人たちとの新たな出会いがあり、何かのご縁で、当診療所で健康診断をしていただいたり、また、ワクチン接種をしただけなのに、大変感謝されるのがうれしいと言ってくれました。 
 特別に丁寧なことはせず、普通に接しているだけなのに、皆なんでこんなに喜んで帰るのだろう、ワクチン接種に関して、どれだけ邪険にされたり、嫌な思いをしてきたのだろう、という話も出ました。
 にかほ市の集団接種、および個別接種を行っている他の診療施設はほぼ6月に接種を終了し、自院の患者のみ7月までといった施設もあります。
 私たちのところは、いろいろな理由で接種できなかった人もいるかもしれないので8月の最後まで個別接種をすることにしています。
 最近は当診療所の患者は、ほぼほぼ0で、毎日がほとんど他で接種できなかった方々です。
 今日は、こんな出会いがありました。
 他院に通院されているご夫婦。
 以前は福島に住んでおられ、夫は原発の仕事をされていました。60歳を目前にして定年延長し、65歳まで働けることになっていたということでしたが、そんな平和な12年前、突然東日本大震災に見舞われました。
 にかほ市には親せきがいるでわけもなく、特別なご縁があったわけではなかったそうですが、友人はいたとのことで、当地に避難されたそうです。
 その後、福島の家は住むことができなくなり、仕事もなく、早期退職をして、こちらの空き家に住み、福島と仁賀保を行ったり来たりされて暮らしていましたが、とうとうにかほにご自宅を新築され、住まわれているとのことでした。
 福島では犬を飼っていたらしく、犬も一緒に行ったり来たりしたそうです。残念ながら今は亡くなったそうですが、私の家の猫が通っている獣医さんのところにそのワンちゃんも通っていたらしく、ご縁とは何とも不思議なものだと思いました。
 この方々は当診療所では2回目の接種でしたが(本日6回目)、妻から、獣医さんの話を聞かされ、夫は血液サラサラの薬を飲んでいましたので、圧迫している数分の間の話です。
 前回の接種時にはできなかった話ですが、2回も当診療所で接種していただけるとなると、こんなお話もできるのだと、本当にうれしく思います。
 そして、空き家に住んでいた時のご近所さんが当診療所をちょうど受診しており、本来はバスで帰宅する予定でしたが、今日は、そのご夫婦に送ってもらうことができました。
 
 診察室のほんの数分の間にでも、このような出来事が起こっていますので、受付や看護師たちも同じように、様々な方々の人生に触れることができているのだと、改めて思います。
 実際には、ワクチン接種の予約や後の処置、報告など、仕事は増えていると思いますが、当診療所の職員が迷わずに、うれしかったこととしてあげてくれたのも本当にうれしいです。
 忙しさにかまけて、忘れがちな日々の大切なことに気づかせてくれた診療所の皆にも感謝です。
 8月末まで接種を続けるという選択肢は、悪くなかったのではないかと、今は素直に思えます。
 
 仕事がちょっと大変になったとしても、自分たちのできることをしっかり行っていくことが、自分たちの幸せにつながるし、自分たちがそんな気持ちで仕事をすることで、診療所に来てくれた人が少しでも安らかな気持ちになってもらえたらと思います。

(令和5年8月)

大分県・姫島村国保診療所長
三浦 源太 先生

みなさんは診療所で耳鼻科疾患をみることも多いかと思います
中耳炎、副鼻腔炎、頭位変換性めまい、耳垢塞栓、突発性難聴などごく日常的です
その中で突発性難聴は耳鼻科にできるだけ早く紹介しステロイド治療開始につなげるべき比較的単純な疾患と考えていました
ところがいざ自身が突発性難聴になってみると色々と考えることがありました

令和5年2月5日
日曜日午後 週末を大分市内で過ごし車で姫島へに向かう途中「車のオーディオがこもった音になっている」と違和感を感じました
新車なのにもう故障か困ったなと思いつつ姫島行きフェリーに乗りこむと今度は船内のざわつきがプールで水が耳に入ったような感じで聞こえました
何か起きたなと考えましたが聴力低下の自覚はなく突発性難聴とは考えついていませんでした。

姫島の自宅に着くころやっと左側の聴力低下に気づき、「聴力検査」というiOSアプリを見つけノイズキャンセリング機能の強力なAirPodProで測定してみると左耳125Hz,2000Hz,4000Hzで低下があり突発性難聴を確信しました

2月6日
午前外来を終えフェリーに乗って総合病院耳鼻科を受診、純音聴力検査では前日の結果とほぼ同じ測定結果でした
耳鼻科医師の診断も軽症の突発性難聴であり、約束処方のようなステロイド、アデホス、メチコバールの内服治療開始となりました
ですがこの時点では聴力低下は軽度で早期にステロイド治療開始できたし、重症感もないのでまあ少し不便を我慢すれば元の生活に戻れると楽観的でした

安静にすることも重要とはわかっていましたが外来予約はあるし医学生の短期研修が多くある時期でしたから休むことなど毛頭浮かびませんでした
数日後には厚労省出身の大分県副知事が来島し県の協力で開始した通所リハC事業(短期集中予防サービス)のプレゼンを行う予定があり普段以上にやることがありました

2月10日
聴力の改善が全く無く、耳鳴は悪化していました
耳鼻科医に電話で伝えるとステロイドを点滴へ変更しビタミン剤・ミノファーゲン静注を加えるレシピが提案され、診療所での連日点滴となりました
ステロイドの副作用で体重増加するものと思っていましたがむしろ体重減少し顔面のざ瘡が生じました

その後はアプリの聴力測定に一喜一憂し、難聴自体は調子の良い日もあればくぐもり感が強い日もあり変動すること、そして耳鳴こそが症状の中核になってくるということがわかってきました
耳鳴はまるで一日中耳の横でセミが鳴き続けているように感じられ想像以上につらいものでした
患者さんの声を聞き取る外来診療では半日で疲労し、家で音楽を聞いてもくぐもった音で全然楽しめません

ネットで学術情報も集めてみましたが突発性難聴の病因解明や治療進歩は乏しいようです
「原因はストレスの関与はあるものの不明 軽症で併発症なく早期治療すれば一週間以内に改善することが多く、重症で併発症があり治療開始後2週間で聴力改善が乏しい場合は聴力予後不良」ということの再確認でした

2月17日
発症12日目の再診、純音聴力検査でもほとんど回復してないことが確認されました
文献的には発症2週間目に改善がないと聴覚予後は不良とされていたので予後不良を覚悟させられました
一方で耳鳴はますます耐え難いものになっていました
自分の外来予約件数も減らしていましたが、このままであれば診療を続けることはできないのではないかと悲観的になります
もしかしたらステロイド副作用によるうつ症状だったのかもしれません

このころ耳鳴の対処について情報収集をはじめ耳鳴メカニズムの進歩を知りました
以前いわれた聴覚器末梢神経の異常興奮による耳鳴説よりも、聴覚器末梢神経の部分的な機能低下により求心性信号が減少し大脳聴覚野が残存正常聴覚と整合性を取ろうと機能自体が耳鳴を自覚させるというJastredboffの神経生理学モデルが有力となっていました
さらに、耳鳴の自覚苦痛については大脳辺縁系や自律神経系の反応が重要であり、介入する方法としてはTRT(Tinnitus Retraining Therapy)という順応療法が有効であることも初めて知りました
本来であれば専門医によるカウンセリングを受けつつサウンドジェネレーターという機器で行う治療ですが、相談した耳鼻科医は積極的でなかったため「TinAid」というiOSアプリを利用してTRTもどきの自己治療をおこないました
また、Youtubeには耳鼻科医師により耳鳴苦痛軽減に有効な音響動画がアップされておりこれにも助けられました

3月17日
発症40日目の再診、聴力低下状態の固定が確認、念のためのMRIで聴神経腫瘍も否定され内服薬はすべて中止し耳鼻科通院も終了としました
文献的にはこの時期からの聴力回復は望めないことから障害と付き合っていく諦めもついていましたが自己流のTRTもどきだけは続けていました
やや悲観的な諦観の境地になったわけですが、実は治療終了後の3月下旬から聴力は徐々に正常下限まで回復していき、それとともにあれほど苦しめられていた耳閉感や耳鳴がいつの間にか消えていったのです
4月中旬には毎日の聴力測定をやめましたが8月現在更に回復していることを先日確認しました


さて、今回の経験では定型的で軽症と普段考えている病状でも患者としての悩み苦しみは大きいこと、普通にできていたことができなくなる喪失感の大きいこと、失った機能に対するリハビリ的治療が心の支えになること、エビデンス(文献的予後判断)に頼りすぎる危なっかしさ、スマホアプリやYouTubeが医療資源になること等々を身をもって知ることが出来ました
わかったつもりでいたコモンな疾患のことも全然わかっていなかったことも実感させられました

幸いなことに、今回は診療に差し障る障害は残しませんでしたのでこの経験を今後の診療にいかしていきたいと思っています

添付資料

(令和5年10月)

岐阜県・県北西部地域医療センター副センター長・国保白鳥病院副院長・国保小那比診療所長
廣瀬 英生 先生

オンライン診療はじめました

我々の所属する県北西部地域医療センターは文字通り県の北西部のいろいろな場所に診療所を抱え、それぞれの診療所への移動が長く、移動機会が多いのが特徴です。その中の一つである小那比(おなび)診療所で、県の事業の一環として、県下初オンライン診療を開始しました
ここ小那比診療所は、独立した診療所といっても週1.5日に診療するのみのところです(火曜日が隔週、金曜日は毎週)。その診療していない、火曜日を埋める形として開始しました
ちょうど開始したのは10/10午前で、その日の患者はおひとりでしたが、接続、会計、処方箋発行などバタバタしている中、なんとか終わらせることができました。
まだまだ小さな一歩でこれからいろいろ展開する予定ですが、その日の午前中の予定を考えると、透析当番、胃カメラ、会議を行っており、オンライン診療であればその間を縫って行える利点があり、医師不足が将来考えられる中、可能性があると思いました。
中日新聞(最弱ドラゴンズの親会社)の取材も来ており、記者からのインタビューで患者さんも「いつもの診察と変わらない雰囲気でできた」と言っておりました
まだまだ、会計処理、処方箋の対処など課題はありますが、今後の診療所のありたい姿のひとつとしての可能性を感じました

添付資料⇒中日新聞「国保白鳥病院でオンライン診療の実験開始 医師の負担減に期待」(2023年10月11日)
https://www.chunichi.co.jp/article/786055

(令和5年12月)

岡山県・鏡野町国民健康保険上齋原歯科診療所長
澤田 弘一 先生

「国保直診の役割」

年末でも、それほど忙しくなく、いつも通り過ごしています。
岡山県・鏡野町では、コロナ患者が増えつつあり、町内各介護福祉施設では、次々とクラスターを起こしているにも関わらず、比較的マスコミ発表が少ないせいか、危機感が薄く、忘年会や新年会が計画・実施されています。子供に関してはインフルエンザが流行して、各小中学校では学級閉鎖が順番に起こっています。マスク生活が長いため、口呼吸から歯周病や虫歯を罹患している方々が散見されます。

そんな中、当町(人口12000人)で行っていた、介護予防事業(オーラルフレイル編)の実績が出て評判が良く、今年は隣の市(津山市:人口10万人)の介護予防事業のアドバイザーとして、事業の計画・実施者として関わってきて、今月で無事に終えることができました。
肝は、「住民が問題ではないと思っていたのに、実際はオーラルフレイルであったことに気づかされて、改善するための行動変容につなげた。」というところです。フレイル・要介護・疾病の手前に起こる自覚症状がない身体的変化を理解し、生活習慣を改善することは、様々な分野で共通するアプローチであろうと思います。

国保直診は、人口が少なく、採算が悪く民間の医療機関が進出できない場所でも、被保険者のために医療・保健・介護・福祉を一体的に提供する第一の役割があります。その中で、得られた知見を広く他地域に還元していくことが、二つ目の重要な役割であると考えます。こんな話は、国保関係者には、当たり前でも役場職員や保健師などには、何回も説明する必要がありますし、そのこと自体も大切な三つ目の役割です。

今年もあっという間に終わります。「ありたい姿プロジェクト」でも私達国保直診の存在意義をあらためて見直す良い機会になり、国保直診の皆様方、そして国保直診以外の方々に私たちの成果を広めることで、国民の福祉に貢献したいと思います。診療所委員会の皆様 Ⅰ年間お疲れ様でした。

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(令和4年11月)

大分県・姫島村国保診療所長
三浦 源太 先生

 今回は地姫島のお祭について書こうと思います
 
 自分が姫島に初赴任したのは平成6年ですが、初赴任しての地域の感想の一つは「なんてお祭が多い島なんだろう」ということでした
 荒神まつり、梅まつり、清正公まつり、明神まつり、お魚まつり、禊まつり、お盆まつり、舟引まつり、車海老まつり、新嘗まつり、銅像まつり等々、一年を通して島民対象や観光客対象の様々なお祭りがあります
 島外から観光客が一番多く来るのは盆踊り(3日間で20種類以上の踊りを各地区の盆坪で披露する大規模な祭りで、子どもたちのキツネ踊りが人気で国選択無形民族文化財)ですが、地元だけのお祭りにもそれぞれに特徴があって皆で楽しみにし、神事等もきちんと受け継がれています
 しかし新型コロナ感染症の出現により人出の多いお祭りは次々と中止や大幅な規模縮小に追い込まれました
 ところが、そんななか「舟引きまつり」だけはコロナ禍中でもほとんど規模を変えることなく中止されずに開催されました
 これは舟引き祭りに特別な役割があるからだと自分は考えています
 
 
 舟引きまつりでは姫島大帯(おおたらし)神社に奉納されている八幡丸という全長5メートルほどの御神舟を、チキリンばやしの子どもたちを乗せた台車の上に設置し引船とします。子どもが叩くチキリンばやしを響かせ島内を練り歩きつ「ほぅ~らぁ~ん~えぇ~~ぇ~~ぇ~」から始まる独特の祝い唄を辻々で披露します。
 「ホーランエンヤ」と呼ばれる祭りは漁業の盛んな全国の町にあり、船頭さんの漕手に対する声掛け唄が起源です。大分県内の豊後高田市でも元旦にホーランエンヤのお祭りがありますがこちらは実物の舟を港で漕ぐお祭りのようです。
 
 姫島では舟引きまつりの主管は島内6区の輪番制で、担当区の男性はお祭りの1ヶ月ほど前から地区公民館に集まり準備をはじめます。
 準備でいちばん大切なのが祝い唄の練習です。
 毎年あるお祭りなのですが実際に自分が唄うのは皆6年ぶり、長い唄に独特な節回しを付け一息で唄いきるのはなかなか大変です。
 そのため師匠と呼ばれる唄上手が唄の指導にあたるのですが、練習当初はベテランにも師匠の指導が入ります。
 
 そして今年は自分と豊田先生(自治医大義務派遣中)が住む2区が主管区ということで、10月8日に舟を引き、唄をうたってきました。
 子供の頃から節回しを聞き育った住民でも初参加組は大変ですが、よそからの新参者には唄い始めのかけ声を出すだけでも大苦労です。
 初参加組は師匠とのマンツーマンの声出し練習から始まりますが、結局は集まった皆の唄を耳で聞いて声を出し徐々に体得していくしかありません。
 豊田先生は相当苦労したことと思います。

 さてこの時代、数十人が集まり大きな声で唄い合うとなると、どうしても新型コロナ感染症の危険性を考えないわけには行きません。大分県内の感染者数は8月に第7波のピークがあり1日2,000人を超えました。島内にも散発的に感染者が出ており島外に働きに出ている2区住民を起点に練習場がクラスター化するリスクがありました。
 そのため練習場所を例年よりも広い換気をした施設とし、待機者は一定間隔のイスに着座、唄い手と待機者とは更に遠く離すゾーニングを徹底しました。
 結局練習を始めた9月初旬からは県内ピークアウトし、練習期間中に島内では一家族の発生があっただけで拡散はなく無事に練習を終えることができました。
 
 お祭り当日は未明5時の肌寒い中を神社に集まります。神事の後に観客に餅まきがあるのが恒例なのですがこれはコロナ対策で前日配布に変更。
 社内に奉納されていた八幡丸を引き出し境内から順番に唄い始めます。
 最初に自分の唄番が回ってくるときは相当に緊張します。特に自分の場合唄い始めが村長宅前ということで失敗は許されません。
 唄いだしの音程は大丈夫かな? 最後まで息が切れずに唄いきれるかな? 歌詞をど忘れしたりしないかな?などなど
 心配しつつも無事に唄い終えると緊張も取れ他の人の唄を聞く余裕も出、唄に合いの手をかけていきます。自分は診療所や介護施設など5ヶ所で唄を担当しました。豊田先生も一ヶ月の早期育成にしては十分な唄いっぷりを診療所前で披露していました。
 その後舟引き行列は島内主要部を練り歩き130ヶ所ほどで祝い唄を披露、午後3時ころに再びお社に着いたら最後を師匠が唄い締めし無事終えました。
 一ヶ月ほどの練習期間には毎日顔を出す唄上手な人もいれば、たまにしか顔を出さない人もいます
 普段は患者さんとしてしか接することのないひととも、唄の組になったり唄の指導をされたりし意外な一面を知ったりできる機会でした。
 今では島外の職場に働きに出る人も多くなり普段は顔を見かけなくなった人もこの時期には濃厚に顔を合わせ地域の一体感が醸成されます。いわゆるソーシャル・キャピタルの積み上げになるようにも思われます。
 
 さて、冒頭に舟引き祭りの特殊な役割と書きましたが、実はこのお祭りには地区の資金集めという一面もあるのです。
 祝い唄を披露すると付近のお家からご祝儀をいただけます。任意のご祝儀ですが130ヶ所×αで結構な額が集まります。これを神社と折半し残ったお金が今後6年間の地区行事の軍資金になるというわけです。練習を重ね精魂込めた唄を披露することで地域の活動資金を調達するという仕組みがあったからこそ、新型コロナ禍の厳しい時期をも乗り越えたのかもしれません。

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(平成31年1月)

秋田県・にかほ市国民健康保険小出・院内診療所長
和田 智子 先生

 この時期になると、外に出ていた若者も戻ってきて、一時集落の家々がにぎやかになります。2世代同居であった家も一挙に4世代がそろうといったことも稀ではありません。
 楽しい楽しいひと時を、皆が共有します。南から来た子供たちは、雪に喜んで遊びます。(ちなみに1月2日が休日当番にあたっていましたが、ほとんどが子供達でした。)
 しかし、そんな楽しい時間はほんの一瞬ですぎていきます。
 子や孫たちは、また、元の土地に帰りゆき、残された者たちもこの土地で、また、日常を過ごしていくことになります。

 さて、昨日受診した93歳のお婆ちゃん。飲み薬は忘れても、畑仕事は忘れません。でも、この時期には畑でやれる仕事はなく、楽しみと言えば、やはり暮れから正月に帰ってくる孫とひ孫です。ひ孫も一番下がもう小学校4年生になりました。そんなわけで、一緒に遊ぶ役割は自分の息子夫婦にバトンタッチしてますが(息子夫婦ももう後期高齢者に突入しています。)、それでも、それはそれは楽しいひと時なのです。眺めているだけでいいのです。それでも、必ず別れの時はやってきます。
 昨日受診した時の、最初の言葉は、「昨日帰った。」でした。いつもいつも私が、帰ってきたか問うもので、その言葉になってしまったのでしょう。「さびしくなっちゃったね。」と声をかけると、「お正月はいっぱいで大変だったな。来た時はいいけど、帰る時はやっぱりな・・・。けば(来れば)必ず行く。」それを聞いて声をかけられないでいた私に、数秒の間ののちに「じぇんこもな(お金もな)。」と言葉を継いでくれて、診察室で二人で笑い合いました。
 
 たったそれだけのことだったのですが、時の移ろいや無常感など、たくさんのことを感じさせていただきました。盆と正月は、餅つきが器械になっても、正月料理が宅配になっても、やはりとてもとても大切なときなのです。

(平成31年2月)

奈良県・明日香村国民健康保険診療所長
武田 以知郎 先生


Dr.イチローの地域医療の原点を探る-Vol.1

 自治医大を卒業した定めで、卒業後は基本的に出身県の奈良県内で勤めてきましたが、義務年限終了後は入局していた奈良医大小児科に身を投じることになりました。お世話になりますと忠誠を誓った矢先、当時医局の関連病院だった福井県の若狭地域にある国立療養所にいきなり派遣されることになりました。「え〜、地元に家を建てたばかりなのに!」まるで企業のサラリーマンみたいな話で単身赴任となってしまいました。義務年限内にへき地から大学まで研究に通い、既に取得目前だった博士号の言わばお礼奉公みたいな派遣でしたが、ここでの1年間はのちのちの仕事に影響与える貴重な機会となりました。
 ここでの診療は、地域の小児プライマリケア、重症心身障害児のケア、末期のエイズ患者さんのケアなど、普通の病院の小児科勤務医より濃くて深い総合的な診療に携わることができました。大学病院などの先端医療では600gの極小未熟児を助けた、血友病の最新治療薬が開発されたとか言う裏側で、重い障害を残し施設で過ごさざるを得なかったり、血友病治療の影響でエイズに感染し、遠く離れた療養所で1人ひっそりと亡くなっていった方など。医療の光と闇を痛感する1年でもありました。
 それにもまして影響を与えたのは、同じ大学の卒業生達との出会いでした。当時派遣された療養所の隣町の診療所には、カナダのトロントから災害救急を学んで帰国した林寛之先生(現福井大学医学部総合診療部教授)が勤務していました。自治医大の福井県人会の勉強会にお邪魔した際に、彼から当時はまだ普及していなかったトリアージの概念を教わりました。奇しくもその冬に阪神淡路大震災がありましたが、もちろんこの概念は知られておらず、ここで活かされなかったのが大変残念に思いました。
 もう1人、同じ若狭地域の名田庄村(現おおい町)の中村伸一先生が勤務していました。私が奈良県のへき地診療所に勤務しているときに、ある雑誌に彼の地域医療の活動報告が掲載されていました。当時私が抱いていた地域医療への思いと全く共通したもので、親近感を覚え一度会ってみたいと思っていたのです。
 福井に赴任して半年の1月16日の母校での学会でやっと彼と会うことが出来て、実際に話をしても「やはりこいつはすごい!」と言う印象を持ち福井に戻りました。その翌日の明け方、官舎で寝ていたら尋常ではない揺れを感じました。そうあの阪神淡路大震災の揺れだったのです。最初は美浜原発の爆発かと焦りましたが、テレビでNHK神戸支局の映像をみて初めてとんでもないことが起こったと知りました。残念ながら病院からの災害派遣隊には加われませんでしたが、大変な年となりました。
 その後しばらくして、福井県人会で中村先生と何度か顔を合わせるたびに意気投合し、名田庄村に集まろうということになりました。林寛之先生と県境越えたすぐの滋賀県朽木村に勤務していた同期生の高橋昭彦先生(現ひばりクリニック院長)、敦賀病院勤務医だった同期生で先代の名田庄診療所長の服部昌和先生(現福井県立病院健康診断センター長)ら5人で名田庄村の「新佐」と言う料理旅館で夕方6時ごろから飲み始め、とんでもなく話が弾み、気付いたら明け方の4時になっていました。私の中では明治維新の勤皇の志士の雰囲気で「新佐の夜明け」として心に強く残っています。
通常であれば、3年間ぐらいは福井で勤務するのですが、3月になって奈良県庁の健康局長から電話があり、「県立五條病院をへき地医療中核病院に指定するにあたり、へき地医療を支援する部署を新設し、部長としてやってくれないか」と言う内容でした。
 地元に帰れる喜びと同時に、卒業生の懸案だったへき地医療支援システムが動く喜びで「やりたいです!」と即答しました。が、医局派遣なので、教授の許可がないとお受けすることはできないと言うと「もう話はつけてある」と言うことで、平成7年5月から奈良県に帰還し、県立五條病院へき地医療支援部を立ち上げることになりました。
このへき地医療支援システムを高く評価してくれたのは、紛れもなく中村伸一先生でした。私自身としては、彼の名田庄に定着しての揺るがない地域医療に憧れを抱いていました。また彼からは健康学習学会にも導いてもらい、私が緊張せず聴衆に自分ごととして心に響くプレゼンが出来るようになったルーツとなしました。中村伸一先生は、後輩ではありますが師匠でもあり、同志でもあり、良きライバルでもあります。そして彼が力を注いでいる国保直診は、私にとっても地域医療の原点でもあります。

(令和1年6月)

広島県・北広島町雄鹿原診療所長
東條 環樹 先生


 カンボジアと聞いて何を思い浮かべるでしょうか?多くの方が「国名は聞いたことあるけど東南アジアのどこだっけ?」とか「ポルポトの血塗られた原始共産主義革命の番組をテレビで見たことある」とか「世界最貧国の一つでしょ?」などと思われることでしょう。一昨年の秋にカンボジアに行って来ました。約10年前に同国政府の医系技官(医師)2名の研修を受け入れ、年余に渡り是非自国への来訪を、と誘われていました。
 10月末に訪れたカンボジア王国の首都プノンペンは雨季から乾季への移行時期で比較的過ごしやすく、そこら中で道路や巨大ビルを建造中の活気にあふれる都市でした。日系企業の進出も相次いでいるようですが、何といっても中国系企業、政府の本気度合い、露骨さをまざまざと見せつけられました。今まさに成長しつつある、ちょうど高度経済成長期前の日本と同じ状況ではと想像しました。信号のない交差点をクラクションを鳴らしながら高速で走り抜ける自動車の横をヘルメットなしでスクーターに4人乗っているというchaos感も満載でした。  
 カンボジア(クメール)料理は日本人にも受け入れやすく、また各国の料理店が軒を連ねていることから食べることには不自由することなく過ごせました。
 そんな中で医療に関しては1960年代に始まったポルポト率いるクメールルージュによる原始共産主義革命で知識階層の代表である医師は真っ先に粛清の対象となり、革命軍が投降した1979年には全土で100人足らずの医師しか生存していなかったと言われています。そこから医療提供システムを再建することは至難を極め、今なお種々の問題が山積していると友人は語っていました。数少ない医師は人口の4割が居住する大都市プノンペンに集中し、公的医療機関は給料が低いので就職希望者が少なく、ガンなどの深刻な病気では多くの国民がより質の高い医療を求めてシンガポールやタイ、ベトナムなどに渡るそうです。いくつかの医療機関を視察させてもらいましたが、それぞれで同様の話を聞くこととなりました。そして異口同音に日本の医療制度は素晴らしい、どの発展途上国も目指すべきだ、と(もちろん英語で)語りかけてきました。では、本当に日本人はその素晴らしい医療提供システムを実感、享受しているのでしょうか?
 「オレゴンルール」をご存知の方も多いと思います。これはオレゴン州衛生局玄関に掲げてある医療提供の原則で「low cost, accessibility, qualityのうち2つを選ぶことができるが同時に全てを望むことはできない」というものです。現在日本ではこの3項目でいずれも世界トップレベルです。ただしこれはあくまでも表面上の評価で、例えばcostに関しては窓口負担は少額でも高額医療をはじめとする医療の高度化などで国家の負担はうなぎのぼりであること、accessibilityに関しては医療従事者の身を粉にするような負担の上に成り立っていること、qualityに関しては他国からの評価は高いのに肝心の自国民からは驚くほど低いこと、など問題が山積しています。これらはいずれも世界に冠たる国民皆保険制度がもたらした「いつでもどこでも好きな時に医療サービスを利用できる、医療はあって当たり前」という負の部分ではないでしょうか。一度でも海外旅行に行って他国の医療機関を受診すれば、いかに当然と思っていた日本の医療提供サービス体制が素晴らしいものか実感するはずです。なかなかその機会に恵まれる人は少ないでしょうが。
 しかし現状は長く続かないはずです。急速な社会の高齢化でさらに年金支出と医療費が伸び続けることは必至です。そんな中で新たに介入の余地、必要があるのは前述のcost以外の要素であるaccessibilityとqualityの部分だと考えています。国民一人一人がもっと医療の大切さを認識すること、有限な資源であることを理解すること、そして常に医療関係者に感謝すること、それは困難なことでもコストのかかることでもありません。しかし何らかの働きかけは必要ですし相当な時間はかかります。将来それらが実現されれば真に医療が必要な方に関してのaccessやquality(国民の評価として)は改善するでしょう。
 そんなことをカンボジアの首都プノンペン、メコン川のriver side cafeで中ジョッキ一杯80円のアンコールビール(Angkor Beer)を飲みながら考えてみました。

来年の春はニュージーランドに行く予定です。(もちろん仕事)

(令和1年7月)

愛媛県・伊予市国保中山歯科診療所長
髙橋 徳昭 先生


 昭和55年に東京医科歯科大学歯学部を卒業し、横浜市立大学医学部歯科口腔外科、愛媛大学医学部歯科口腔外科を経て、昭和61年4月から旧中山町国保歯科診療所(現伊予市国保中山歯科診療所)の初代所長として赴任し、33年間在任しています。
 私の実家は旧伊予市にある浄土宗の「栄養寺(えいようじ)」というお寺です。
 私が長男なのですが理系に進んだため、文系の弟がぶつぶつ言いながらも跡を取り住職となっています。(私は正坐がとても苦手だったので、住職は無理だなと感じていました。)
 栄養学の創始者 佐伯 矩(ただす)博士が幼少期から旧制松山中学まで伊予市に在住して、通学途中に栄養寺があったことから、後に「営養」の表記を「栄養」に統一するよう文部省に建言し、以後定着したといわれています。(添付ファイルをご参照ください)
 管理栄養士さんの中には、わざわざ(道後温泉旅行のついでに?)栄養寺詣出に来られる方もおられるようです。
 こんな由緒ある(?)寺の息子に生まれてきて、「口から食べる」ことを支援する仕事に携われていることは必然なのかもしれません。
 それから私のお仕事につきましては、平成30年3月30日発行の「地域医療」Vol.55 No.4を引っ張り出してきていただき、「診療所新時代ーいまこそ診療所の時代」をご覧いただければ幸甚に存じます。
 さて、最近の私の悩み(大した悩みではないのですが)についてお話したいと思います。
 医療経済学者の間では、「予防で医療費は減らない」、「大半の予防医療は長期的にはむしろ医療費や介護費を増大させる」というのが共通の認識らしいです。
 治療はもちろんのこと予防に力を注いできた私の信念がぐらついてきています。
 厚労省は疾病予防対策を錦の御旗として推進していて、健康寿命は確かに延伸していますが、平均寿命もパラレルに伸びており、「不健康な期間」は縮まっていないことがわかっています。
 歯科医師が「むし歯」や「歯周炎」の予防対策や予防的治療をしていけば、全身的疾患の減少やQOLの向上に繋がり、牽いては医療費の削減に繋がると思ってきたのは、「短期的には」という頭がついてのことだったのでしょうね。
 今話題になっている「年金問題」を含めて医療、介護、福祉等の「社会保障制度」は国が決定する事項です。
 国策に直接影響を与える会議の一つに「経済財政諮問会議」がありますが、何がなんでも経済第一主義で国の進路が決まっていくので、「医療費」という切り口で考えると「予防」は「無駄」、というがトップの頭の片隅にあるとするならば、予防に取り組む本気度が薄れることは考えられないでしょうか。
 でも、私としてはもやもや感はありながらも、やっぱり国保の診療所で目の前の患者さんや周囲の住民の、「ちょっと先」の健康維持やQOLの改善をお手伝いできることを誇りに感じながら仕事を今後もしていこうと思っています。
 いろいろと長くなりましてごめんなさい。ここまで読んでいただきましてありがとうございました。

(令和1年10月)

岐阜県・県北西部地域医療センター国保和良歯科診療所長
南 温 先生


①【生い立ち】
・生年月日:1957年9月27日生まれ(現62歳)
・出生地 :福島県会津若松市
・出身  :大阪府
 と相成りますが、何故に【会津若松市】生まれで【大阪府】出身なんや?と申しますと、私の父親が、【元プロ野球巨人軍】の選手(※南温平)で、プロ引退後【ノンプロ】野球のために野球部を持っていた会津の企業に赴任した為(※昭和36年の柳川事件までは、プロからノンプロにすんなりと行けた!)、会津で私は生まれたのですが、さらにノンプロ引退後は(※私が3歳)は大阪に戻ったので、大阪出身となるからです。
 
②【なぜに歯医者になったか?(=歯学部に入ったのか?)】
 【①】のように、父親が【元巨人軍選手】だったために、もの心ついた頃から『プロ野球選手になる!』との思いで致し、父親もそれには反対もせず、そこそこ野球の【英才教育】は受けていたのですが、唯一【約束】させられていたことが『高2の時点で、身長が175㎝以上になっていなければ諦める!』と言うことでした。
 で、結局、高1終了時点で【171㎝】しかなく、当然私は異論は述べたものの『今、突然言った条件ではなく、小5の頃からの約束であり、もしお前がプロ野球選手になれる運命だったのなら、175㎝にはなってた筈や!お前は、成れる運命と違ゃうかっただけや!』と父親に言われ、まぁ『ごもっとも!』と思ったので断念したのは良いのですが、ずっと『プロ野球選手!』と思っていたので、突然『他に、何を目指したらエエのか?』も思いつかず、『取り敢えず、医学部でも行こまいか?』と思い、【千葉大】と【慶應】の医学部を目指すことにしたので、その時点では『何が悲しゅうて、人の歯グソなんか触らんとアカンのや!?』と、【歯学部】なんかの発想は全くありませんでした(笑)
 ところが【時代】は、【医学部信仰】真っ盛りで、ましてや【千葉】【慶應】がそんな急に思いついたよぉな奴がすんなり合格出来るほど甘いものではなく、結局【2浪】してもダメでした。
 個人的には【3浪】してでも『どこか国公立の医学部!』と思っていたのですが、両親が『そんな勝手は許さんから、今から【2次募集】してる【岐阜歯科大学(※現 朝日大学歯学部)】を受けろ!』とうるさかったので、仕方なく【岐阜】の田舎迄来て受験したら、あっさり通ってしまったし、親がさっさと入学金や授業料を払ってしまったので、渋々【入学】してしまい、人の歯グソを触らんとアカン【歯医者】になってしまったのでした。
 余談ですが、入学してみたら、【中学校】【高校】時代『アイツはアホや!?』と、不遜にも上から目線で観ていた同級生数人が、上級生(3回生)として在学していたことは、見栄っ張りの私としては屈辱以外の何ものでもありませんでしたが、今思うと、『エエ人生経験したわな!?』と思います(笑)
 
③【何故に、ここ和良町(旧和良村)に赴任することになったのか?】
   大学入学直後は『野球部ぐらいに入ってお山の大将でやっとけばエエわな!?』と思って、野球部の練習を観に行ったのですが、あまりにも弱いと言うか下手すぎたので『こんなチームのピッチャーしてたら、外野からの返球の遅さ、肩の弱さで苛ついてやってられんわ!』」と思い、当時、歯学部だけの単科大学ながらも【東海学生リーグ1部】で頑張ってた【アメリカンフットボール】に入部したのでしたが、このことが、その後の人生の【方向】を大きく決めることになったのでした。
 【アメリカンフットボール】部は、【絶対に辞めさせてもらえないクラブ】の【1つ】だったので(笑)、そこそこ強かった為に練習は厳しく、マジに日々辛かったですが全うしたお陰なのか、【大学5年】時には【体育会本部部長(学生)】に、前執行部の先輩達から【推挙】されました。
 当時の大学の【体育会】は【24種目】のクラブがありましたが、【副部長】はじめ【本部執行部委員】には、いろんなクラブから選出されましたが、【体育会本部・部長】に成れるのは、上述の【絶対に辞めさせてもらえないクラブ】の【空手・日本拳法・柔道・少林寺、そしてアメリカンフットボール】の5クラブ出身しか選ばれず、アメリカンからは久々の選出でした。
 で、【学生側】の【本部部長】になったおかげで、【大学側(教授)】の【本部部長】と、それこそ毎日のように接っしているうちに【男が男に惚れた!】で、その教授のことが好きになり『先生!卒業したら、先生の講座に残らせて下さい!』とお願いし、教授も、教授の奥様も、凄く可愛がって下さったおかげで、卒業後は【恩師】の講座・医局に入らせて頂いたのですが、その【医局】こそが、当時の【和良村国保病院歯科】を関連病院として持っていたのでしたヾ(*´∀`*)ノ
 ここへ【派遣】される者は、【講師】【大学院生】【助手】以外の若手【研究生】で、私は【6代目】として派遣されましたが、私の前の【初代~5代目】の方々は、皆さん『早く帰らせて欲しい!』と【1~2年】で交代してもらっておられましたが、私だけは、自ら【延長】を教授に申し出て、気が付いたら現在(※35年目)に至っております。(笑)
   因みに、私の残った【講座・医局】が、ここを関連病院として持つことになった経緯は、【恩師(教授)】が岐阜・柳ケ瀬の呑み屋で呑んでいたところ、たまたま恩師の隣に、当時の【和良村村長】と【病院事務長】が座り、初対面でいろいろ雑談してる際、村長から『ウチの村には歯科が無いのですよ・・・』と言う悩み話が出たので、恩師が『なら、ウチの若いモンを行かせますよ!』と、その場で二つ返事の【即決】で決まったことは有名な話であり、そぉ言う【男気】がある恩師だったので、私が惚れた所以です。
 
④【和良での赴任当初の様子】
・【和良赴任年月日】⇒【1984年9月3日(月)】
 上述のように恩師が『ウチの若いモンを行かす!』と言う事で、私も【6代目】として赴任したのですが、私の場合は、年齢的には【2浪】してるので、過去の先輩方よりも若くはなかったですが、違う意味で【特別】若いモンだったと思います。
 と言うのは、
 当時は、医科も歯科も【国家試験合格発表】は【5月中旬】で、【合格証】が届くのは【5月下旬から6月初旬】だったので、社会的に正式に【医科医師】【歯科医師】になるのは【6月1日】からが普通でした。
 と言う事で、私も晴れて【6月】から正式に歯科医師になったのですが、赴任したのは【9月3日(月)】だったのです!
 つまり、歯科医師になって【3ヶ月】そこそこでここに赴任した為、上述のように【特別】若いモン!と言えるからですが、現在ならあり得ない話ですし、今思うと我ながら『とんでもない人事やったなぁ・・・』で、当時の住民の皆々様には申し訳なく思っている次第です<m(__)m>
 
⑤【何故に、ここまで35年以上も赴任し続けているのか?】
 私自身は、大学の講座・医局での【ぬるま湯】的な1日数例の臨床や研究等よりも、へき地における【馬車馬】的な、まるで戦場の最前線的【臨床】の方が、やり甲斐があり楽しかったので、他の諸先輩方とは違い『もぉ1年延長で居らせて下さい!』と教授にお願いしてたものの、まさかこんなにも長く居続けるとは思っておらず、せいぜい【5年】ぐらいと考えておりました。
 ところが、5年目のある日、とある初老男性患者さんから、突然『先生!最近、先生の評判エエよ!』と言われたのですが、それを聞いて『さよかぁ~、ちゅうことは、それまでは評判良ぉなかったんやわな!?まぁそりゃぁそぉやわなぁ~ 超ペイペイの新米がやって来て診てたんやからなぁ・・・』『俺ら、医者や歯医者は、取り敢えず失敗は無い!と言う前提で、大きな顔をしてやってるけど、例え大きな失敗は無かったとしても、あきらかに5年前よりは、全てにおいて上手くなってるはず!俺自身が、5年前の俺と、今の俺とどっちに診てもらいたいか?と問われたら、絶対に今の俺!と言うわな。そんな俺やったのに、住民の方々は、表立っては文句や不評も言わず、皆さん【先生!先生!】と俺を慕ってくれて・・・俺の今があるのは、住民の方々がモルモットになってくれたお陰やんけ!?』『よぉし住民の皆さんへの恩返しのためにも、【もぉ出て行ってくれ!】と言うまで、俺はここで頑張ろう!』
 と思ったのが、これだけ長期に渡って居座ってたことの理由ですね。
 その後、【恩師】が大学を定年退職され、医局の【後輩】が医局の教授になったものの、ここ和良や和良住民に対する思い入れが恩師や私とは【温度差】があり、私の【公務出張】時等に応援で派遣してくれる後輩も、住民の為に、責任感ややる気のある奴を選ぶのではなく、単に医局員の【小遣い稼ぎ】的な感じで派遣してくるだけになったので、教授と言っても、所詮【童門会】の後輩なので、『エエ加減にさらせよ!下手でも、患者さん思いならば、何をしてくれても俺が全責任とったるし、なんでも教えたるけど、責任感もなく、大学での診療が一番エエと勘違いしとる奴なら要らんわ!』と、こちらから【大学医局】と【ご縁】を切らせてもらったので、その後は大学とは関係なく、私が一人で全てやっておる次第です。
 
⑥【和良においてやってきたこと】
 まぁ自分で言うのもなんですが、全国的に見ても、常に【どこもやったことないよぉな、10年20年も先のこと】をやり続けて来た自負はあります。
 例えば、現在流行のよぉに叫ばれてる【口から食べさす(※口腔機能低下症&摂食機能障がい患者への食支援)】や【訪問歯科診療】なんかも、既に25年前には提唱し、20年前からは実践し続けておりますし、その他にも【全国初!】として新聞等に取り上げられるよぉな活動やシステム構築をやって来ましたが、いちいち紹介するのも面倒くさいので、どのような【理念】や【発想】で、今日までやって来たかと申しますと、【国診協】ホームページの【会員施設紹介】にも載せてあるよぉに
 ・【基本理念】は「全人的・全身的なケアで健康で長生きを!」
 であり、具体的にどのようなことかと申しますと
 ・『単に外来歯科診療を行うだけでなく、「乳幼児~高齢者」「障害者」「医科診療所・高齢者施設・在宅」等々、あらゆるライフステージや生活場所の全地区住民に対して、「歯科の保健・医療・福祉」あるいは「口腔機能リハ」等の「包括的口腔ケア」を実践し、地区住民の「健康で長生き」に寄与する』と言う事です。
 これをもっと噛み砕いて言うならば
 ・『「歯科の保健・医療・福祉」は、単に虫歯や歯周病の治療をするのが目的ではなく、母子・乳幼児期から後期高齢者になってお亡くなりになるまで、生涯、その方の「口腔機能」を守り、かつ乳幼児期から良い食習慣を身に付けさせ個々の「食文化」を構築させ、それを最期まで維持させ守ってあげることであり、それを目指す!』
 と言う事ですね。
 従って、最近流行りの「口から食べさす」と言って、口腔機能が低下した高齢要介護者にのみ介入して「自分達は凄い!」と独り善がりで喜んでる連中には、『それはその人の「食文化」を守り、回復・維持してるのとは全然違ゃうぞ!なんでそこに陥るまでほったらかしにしてたんや!?そぉならんよぉに介入してこそ「食文化」を維持させてあげられるし、本当のプロとして存在価値があるんやぞ!落ちた人への介入は、「専門職」のプロとして当たり前で、なんも凄いことなんかあるかぁ!』ですね(笑)
 さらには、【保健・医療・福祉(介護)】と言っても、我々【歯科】と【医科】では、担う役割が違います。判りやすく言うならば
・【病気、要介護になったら医科!】
  ⇒救援投手型
・【病気、要介護にならないよぉに健康状態をサポートするのが歯科!】
  ⇒先発完投型~救援投手までのオールラウンド型
 と言え、
  ・【医科はrehabilitation的&疾病予防的発想!】
  ・【歯科はhabilitation的&健康保持増進的発想!】
   (※【疾病予防】と【健康保持増進】は、似てても違うものである!)
 で、お互いがリスペクトしあい連携・協働して地域住民の【保健・医療・福祉(介護)】を担う必要がありますが、世の中や他の国保直診地域では、それが明確に認識されず、特に、【医科関係者】が頑張っておられる地域においても、その方々に【本当の歯科の役割とその重要不可欠性と効果】が認識されていない為に、お互いが漠然と勝手に取り組んでる所がほとんどですが、ここ和良では、少なくとも私が赴任して35年間、実践しあっております。
 では、具体的な【活動】はどんなことをしてるか?と申しますと、一言で申しますと
  ・『私が居らんよぉになった後も、【2035年40年問題】のドラスティックな日本社会において、住民が自らの【食文化】を、自らが守れるよぉに、自らが考えて実践出来るよぉに、【地域住民主体の活動】が住民の【当たり前】になり、ひいては地域の【文化】になる働きかけや活動を、ここ25年かけてやり続けている!』
  ですが、具体的活動【内容】について書くと、とんでもなく長くなりますので割愛します。
 
⑦【国診協における活動について】
 現在は【総務企画委員会】に所属しておりますし、それまでにも【広報部会】や【調査研究委員会】等にもおりましたが、昔から私を知ってる方々は、やはり『【南】と言えば、国診協【歯科部会】!』と言う感じではないでしょうか?
 それは【歯科部会】は、私等(※私を含め3人)が、医科中心と言うか医科のみの組織だった当時の【国診協本部】に日参し頼み込んで設置してもらったと言う歴史があるからです。
 どんな経緯だっかと申しますと、
 私は、先日【長崎】で開催された【全国国保学会(第59回)】には、1989年度から【31年】連続でずっと参加しております。因みに、【全国国保学会】とともに、国診協の【年間三大イベント】の【地域包括医療・ケア研修会】や【現地研究会】にも、皆勤賞で参加し続けております。
 で、最初に参加した【第29回全国国保学会(1989年福島大会)】時に、【歯科関係者】の発表は、【X-線】【栄養士】関係者の中のセクションで【その他】的扱いだったため、その時、会場で再会した大学同窓【兵庫県・中田和明先生(※村岡町国保兎塚歯科診療所)】、翌年開催予定だった【山口県】の【吉村元宏先生(※町立大和病院歯科)】と『来年の大会では【歯科セクション】を設置してもらおう!』と相成り、その活動を国診協に働きかけるとともに、セクションを設置してもらっても、ふたを開けたら演題が無かったり少なかったでは二度目は無い!と思い、私と上述の中田先生とで手分けして、全国の【国保直診歯科】施設の所在地を調べ確認し、学会への参加&演題発表の要請をし、なんとか【20演題】超の発表を確保したのでした。
 そして、【第30回全国国保学会(1990年山口大会)】の学会前日に【有志の会】として【国保直診・口腔保健関係者交流会】を開催したのですが、この【前日交流会祭】は、現在は【学会公認】として今でもずっと連続で開催されていて、先日の長崎大会では【第30回目】を迎えました。
 で、その【第1回目】の時に、参加者全員から『学会における【歯科セクション】は設置してもらえたが、是非とも国診協本部に【歯科部会】なるものも設置してもらおう!』と言う声が上がったので、引き続き、私、中田先生に加え【岩手県・高橋邦彦先生(※故人)】の3人で、その活動を始めたのですが、ハッキリ言って先述のように【医科中心の医科関係者ばかりが役員になってる組織】に対しての【要望活動】は難しく、結局実現したのは【1994年】で、その間、我々3人は、毎月のように【有休をとって、自腹で】上京し、その当時、国診協本部があった【ダイヤモンドホテル】に嘆願しに行ったのですが、当初は、まるで【新興宗教】のような扱いでけんもほろろでした。(笑)  
 当時私が33歳、他の2名が32歳でしたが、まるで【明治維新の志士】の如く、私利私欲抜きで本当に情熱だけで頑張っていましたし、その後、厚労省関係者からは【国診協の三銃士】と呼んでもらってた時代もありましたが、今思うと本当に懐かしい思い出です。
 従って、国診協【歯科部会】は、他のどんな部会・委員会とも違って、自分達で自らが望んで、頼み込んで設置してもらった部会なので、設置された1994年から我々3人は、常に『歯科部会、ひいては歯科関係者の存在意義・価値を示しつづけないとアカン!』と肝に銘じて活動してきた自負があり、その結果、翌年の【1995年】から【21年連続24本】の【厚生労働省老人保健事業推進費等補助金 老人保健健康増進等事業】の調査研究事業を勝ち取って来ましたが、そんな【部会】【委員会】は他にはありません!
 高橋邦彦先生が国保直診から去り、中田先生が国診協委員から去り、私が【歯科部会】から去ってからは、他の先生方が委員になって頑張って居られますが、【設置活動】をした我々【OB】から言わせてもらうと、是非、設置活動した目的や意義を再認識してもらい、本部から言われたからやる、言われた事のみをやるのではなく、【歯科関係者の本来の役割と存在意義・価値】を示すために積極的に自らで考え企画して活動してもらいたいと、切に願うばかりです。
 
⑧【布教のための全国行脚(※講演活動)】
 こんな私に対しても『お前の話が聴きたい!』と、有難くもお声をかけてくださる奇特な【自治体】【組織・団体】【業界】【施設】【地域住民】等がおありになるので、僭越ながらも1995年ぐらいからいろんな【テーマ】で全国行脚させてもらっております。
 大まかに言うと
 ◎1995年頃~現在
   【真の地域包括ケア】【真の医科・歯科、多職種連携】構築について
 ◎1997年~2002年前後
 2000年【介護保険制度】【健康日本21】スタートに関連して
 ◎2004~2012年 
   2006年【新予防給付】スタート(※栄養・口腔機能・運動等)について
 ◎2006~2010年
   2008年【メタボ特定健診・特定保健指導】スタートに関連して
 ◎2011年以降ボチボチ
 【2035年40年問題】【各地域、各業界、各職種の生き残りシステム】等々 について
 等々のような感じで全国行脚させてもらって来ておりますが、現在はとにかく【2035年40年問題を見据えての、各地域の生き残りをかけて】が主たるテーマです。
  因みに、最近お伺いさせて頂いた【国保連合会&直診】関係者への講演は
 ◎『我が町の【真】の地域包括ケアシステム
 ~歴史を紐解き、2035年40年問題を見据えて~ 』 (東京国診協)
 ◎『我が町の【真】の地域包括ケアシステム
      ~2035年40年問題を見据えて~  』(奈良県国保連合会)
 ◎『国保直診の理念と実践こそが、その地域と日本を救う!
      ~2035年40年問題を見据えて~  』(石川県国保連合会)
 ◎『命を生ききるために
 ~将来の日本を見据え、今私たちがすべきこと~
         ~2035年40年問題を絡めて~    』(秋田県にかほ市)
 ◎『国保直診が守るべき理念と、新しい時代に求められる変化
      ~2035年40年問題を見据えて~    』 (岐阜県国保学会)
  等々ですが、
 来年【2月20日】には、直診仲間の【千葉県君津中央病院】さんからお声をかけて頂いており、テーマとしては上記のものを総合した
 ◎『【真の地域包括ケアシステム】構築を目指して!
 ~国保直診が守るべき理念と、新しい時代に求められる変化~
          ~2035年40年問題を見据えて~     』
 でお話させて頂く予定です。
 個人的には、【2035年40年問題】については、約8年前から独自でいろいろ調べて来ておりますが、調べれば調べるほど、とにかく、日本中のあらゆる各自治体、各業界、各組織・団体、各企業、各施設、各家庭、各個人等の【これから】を考え述べるためには、世界で類をみない、世界初の超ドラスティックな【2035年40年問題】を見据え考慮されたものでない限り、絶対に通用しない【絵にかいた餅】的なものでしか無い!と断言出来るので、最近の講演テーマには必ず入れさせてもらい、かなりの時間を割いて【少子化】【高齢化社会】【高齢社会】等々の基本的【定義】やそれぞれの【突入年度】も解説した上で、これから迎える【2035年40年問題の日本社会】をご説明させて頂き、その上でお呼び頂いた組織等に応じて『なら、どぉしたらエエんや!?』について、私なりの見解やヒントについてお話しさせてもらっております。
 
⑨【今後について】
 【①生い立ち】にも書きましたよぉに、今日、2019年10月17日現在62歳
 の私は、65歳の【定年(2023年3月31日)】まで、残り【3年165日(=1,261
 日)】と相成りました。
 果たして、その後の【延長】があるのかないのかは【郡上市】のお考え次第なので、個人的には『定年まで!』と思って、残された日々の活動等について考えております。
 先ずは、【専門職】としては、赴任して35年間、常に『この地域において、ゆりかごから墓場までの、全住民の口腔機能を発育・成長・向上させ、時には回復させ、生涯、口腔機能と食文化を維持させてやれるのは、俺しか居らん!俺がやらずして誰がやるんや!?』と思い、その責任とプライドを持ってやってきたことを、最後まで全うする所存です。
 次には、【⑥】にも書きましたよぉに、私が居なくなった後も、住民自らが【当たり前】【普通】として考え実践出来るよぉに、【地域住民主体の活動】が【地域の文化】になるレベルまで昇華させられるように、乳幼児、学童期、それらのPTA、さらには成人・中高年以降の世代全てに働きかけ続ける所存です。
 また、ここ数年、お隣の【国保和良診療所】に、研修に来る【医科医師臨床研修医】に対して、毎月、『ここでしか聴けない、これだけは知って頂きたい理念・概念・定義』と銘打って、【国保直診とは?】【国保直診と国民皆保険の歴史と関係】【目指すべき真の地域包括ケアとは?】【2035年40年問題とは?】【真の医科・歯科連携と多職種連携】【口腔機能とは?】【咀嚼機能と摂取栄養と健康余命の相関関係】【生涯、口腔機能を維持させるための多職種連携と包括的口腔ケア】【急性期から終末期までの、医科関係者が担うべき口腔ケアとそのポイント】等々について、かなり密度が濃い【講義】を行っておるのですが、私のこれらの話を聴いた【医科医師】のヒヨコ達が、岐阜県中、はたまた全国各地に散らばって、勤務する施設や医局等に広めてくれれば、医科関係者、歯科関係者のためと言うよりも、【日本国民】のために現在の社会より確実に良くなると確信してるので、これからもその【夢】を抱きながら頑張る所存です。
 最後に【布教のための全国行脚(※講演活動)】についてですが、こればかりは押しかける訳には行かず、私の話を聴きたい!とお声をかけてもらうまでは【その時、その場】を待つばかりですが、お声をかけて頂きましたなら、現在のところ日本広と言えども、医科関係者・歯科関係者も含め、医療・看護・介護関係者においては、誰もその【実態】のドラスティックさについて理解・認識していない【⑧】の内容で、じっくりしっかり判りやすく解説し、その地域、その組織、その施設等が、生き残れる方向性とヒントについて布教する次第です。
 以上
 
 さて、一気に書き綴ってまいりましたが、ここまで厭きずにお読みになられた方が果たして居られるのか?甚だ疑問ですし、書いてる私自身も、途中から『面倒くさいな~、厭きて来たわ!こんな長文、誰も読まんぞ!』と思いながらの文章なので、ご理解頂ける筋書きになってるのか不安ですが、取り敢えず【定年まで残り3年165日】になった【直診勤続35年44日目】の私の【徒然なる】思いで勝手気ままに書きましたのでご容赦下さい。
 
 これからも、ここ和良に勤務している間は【国診協年間三大イベント】には皆勤賞で参加する予定ですので、どこかでお見かけになられましたら、【ヤクザな風貌や態度】に驚いたりせずに、お気軽にお声をかけてやって下さいませ。
 
 お付き合い頂き、有難うございました<m(__)m>
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(平成30年12月)

岐阜県・県北西部地域医療センター国保和良診療所長
廣瀬 英生 先生


やぶ医者大賞を受賞して

「やぶ医者大賞受賞致しました!」とまわりのスタッフに言うと「えっ!?」 と百パーセントは祝福していない感じで驚かれます。一般の方(例えば友人、親戚など)に関しては、尚更であります。
この賞は兵庫県養父市(やぶし)が主催、日本医師会にも御後援頂いております。ホームページを参照しますと“「養父の名医の弟子と言えば、病人もその家人も大いに信頼し、薬の力も効果が大きかった。」と「風俗文選」にもあるように、「養父医者」は名医のブランドでした。しかしこのブランドを悪用する者が現れました。大した腕もないのに、「自分は養父医者の弟子だ」と口先だけの医者が続出し、「養父医者」の名声は地に落ち、いつしか「薮」の字があてられ、ヘタな医者を意味するようになったのではないでしょうか。
 「薮医者」の語源については、様々な説がありますが、文献に基づいた「薮医者とは、もともと名医を現す言葉であり、その語源は養父の名医である」というこの説が本当ではないでしょうか”ということでポジティブにとらえてよいと考えます。過去にも澤田弘一先生(鏡野町国民健康保険上斎原歯科診療所)、東條環樹先生(雄鹿原診療所長)など地域医療の分野で活躍してきたそうそうたる先生方が受賞をしております。
私は、自治医科大学を平成13年に卒業し、公立診療所を中心にさまざまな地域働いてきました。平成19年からは、国保和良病院(現国保和良診療所)に赴任しそこに和良診療所に義務年限2年を含めた約11年間従事し、通常の診療業務に加え、ヘルスプロモーション、地域での医学教育、地域での研究活動、多職種連携などを行ってきました。
郡上市和良町といえば人口1,700の地域で、名物は聞き鮎大会全国1位に3回輝いた「和良鮎」と蛍であります。また、地域ぐるみの健康づくりで有名です。1950年に中野重男先生が赴任して、湯下堅也先生、母校の先輩である後藤忠雄先生、南温先生が在籍されていたところです。一時期は健診受診率が9割を超えていたすごい!時代もあったようです。また、2000年には男性日本一にも輝いたという歴史もあります。病院(もしくは診療所)に来ない人も健康管理ができるヘルスプロモーションが地域医療の魅力の一つです。2002年より独自の健康福祉総合計画「まめなかな和良21プラン」策定して、2008年には中間調査、2013年には10年目の調査、今年15年目をむかえ、2回目の中間調査を再び行っています。私もこの計画に2008年から携わらせてもらっています。この計画策定後、男性における喫煙は、すべての世代において改善傾向。高齢者の方の地域での社会活動の参加(公民館の参加)割合も増加し、計画をもとにした健康づくりが寄与していると考えられます。
岐阜県内で地域をベースに「地域医療従事者の研究活動を活発化させ、地域医療の質の向上と発展に寄与すること」「卒業生間の情報交換と親睦」を目的に岐阜プライマリケア・地域医療研究ネットワーク(GP-COMERnetwork)の運営に関わっております。現在までに「臨床研修に関するminimal requirement」、「プライマリケア医に紹介された心筋梗塞患者に対する紹介内容の検討」、「プライマリケア施設における下部尿路症状の調査」、「子宮頚癌ワクチンに対する意識調査」という研究を遂行しました。私自身の博士論文は、当和良地域のデータをもとにして作成したものであり(日本の健康成人における心室性期外収縮と循環器疾患との関連について-JMSコホート研究より)、健康づくりでだけでなく疫学研究分野でも地域医療に貢献したいと思います。
「県北西部地域医療センター」の立ち上げに現センター長兼白鳥病院長でもある後藤先生とともに参画し、地域医療、総合診療に取り組む医師の支援が可能なシステム、中長期的に持続可能な、継続性のある地域医療体制の構築を図っております。
以上のことを若干評価されこの賞を頂いたと思われます。これを励みに今後とも地域医療にまい進していきたいと思います。
最後に本年7月8日未明この度の豪雨で和良介護老人保健施設、国保和良診療所の基礎部分が破壊され使用不可能となりました。当日はスタッフ総出の懸命な避難作業でなんとか乗り切りました。老健には、28名が入所しておりましたが、周辺医療機関の心温まる対応でなんとか受け入れをしていただくことができました。また、多くの関係者の方、同僚から励ましのメールを頂きました。復旧にはまだ時間がかかりますが、可及的速やかに復興ができるように努力していく所存です。

H30
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(平成30年12月)

岐阜県・県北西部地域医療センター国保和良診療所長
廣瀬 英生 先生


やぶ医者大賞を受賞して

「やぶ医者大賞受賞致しました!」とまわりのスタッフに言うと「えっ!?」 と百パーセントは祝福していない感じで驚かれます。一般の方(例えば友人、親戚など)に関しては、尚更であります。
この賞は兵庫県養父市(やぶし)が主催、日本医師会にも御後援頂いております。ホームページを参照しますと“「養父の名医の弟子と言えば、病人もその家人も大いに信頼し、薬の力も効果が大きかった。」と「風俗文選」にもあるように、「養父医者」は名医のブランドでした。しかしこのブランドを悪用する者が現れました。大した腕もないのに、「自分は養父医者の弟子だ」と口先だけの医者が続出し、「養父医者」の名声は地に落ち、いつしか「薮」の字があてられ、ヘタな医者を意味するようになったのではないでしょうか。
 「薮医者」の語源については、様々な説がありますが、文献に基づいた「薮医者とは、もともと名医を現す言葉であり、その語源は養父の名医である」というこの説が本当ではないでしょうか”ということでポジティブにとらえてよいと考えます。過去にも澤田弘一先生(鏡野町国民健康保険上斎原歯科診療所)、東條環樹先生(雄鹿原診療所長)など地域医療の分野で活躍してきたそうそうたる先生方が受賞をしております。
私は、自治医科大学を平成13年に卒業し、公立診療所を中心にさまざまな地域働いてきました。平成19年からは、国保和良病院(現国保和良診療所)に赴任しそこに和良診療所に義務年限2年を含めた約11年間従事し、通常の診療業務に加え、ヘルスプロモーション、地域での医学教育、地域での研究活動、多職種連携などを行ってきました。
郡上市和良町といえば人口1,700の地域で、名物は聞き鮎大会全国1位に3回輝いた「和良鮎」と蛍であります。また、地域ぐるみの健康づくりで有名です。1950年に中野重男先生が赴任して、湯下堅也先生、母校の先輩である後藤忠雄先生、南温先生が在籍されていたところです。一時期は健診受診率が9割を超えていたすごい!時代もあったようです。また、2000年には男性日本一にも輝いたという歴史もあります。病院(もしくは診療所)に来ない人も健康管理ができるヘルスプロモーションが地域医療の魅力の一つです。2002年より独自の健康福祉総合計画「まめなかな和良21プラン」策定して、2008年には中間調査、2013年には10年目の調査、今年15年目をむかえ、2回目の中間調査を再び行っています。私もこの計画に2008年から携わらせてもらっています。この計画策定後、男性における喫煙は、すべての世代において改善傾向。高齢者の方の地域での社会活動の参加(公民館の参加)割合も増加し、計画をもとにした健康づくりが寄与していると考えられます。
岐阜県内で地域をベースに「地域医療従事者の研究活動を活発化させ、地域医療の質の向上と発展に寄与すること」「卒業生間の情報交換と親睦」を目的に岐阜プライマリケア・地域医療研究ネットワーク(GP-COMERnetwork)の運営に関わっております。現在までに「臨床研修に関するminimal requirement」、「プライマリケア医に紹介された心筋梗塞患者に対する紹介内容の検討」、「プライマリケア施設における下部尿路症状の調査」、「子宮頚癌ワクチンに対する意識調査」という研究を遂行しました。私自身の博士論文は、当和良地域のデータをもとにして作成したものであり(日本の健康成人における心室性期外収縮と循環器疾患との関連について-JMSコホート研究より)、健康づくりでだけでなく疫学研究分野でも地域医療に貢献したいと思います。
「県北西部地域医療センター」の立ち上げに現センター長兼白鳥病院長でもある後藤先生とともに参画し、地域医療、総合診療に取り組む医師の支援が可能なシステム、中長期的に持続可能な、継続性のある地域医療体制の構築を図っております。
以上のことを若干評価されこの賞を頂いたと思われます。これを励みに今後とも地域医療にまい進していきたいと思います。
最後に本年7月8日未明この度の豪雨で和良介護老人保健施設、国保和良診療所の基礎部分が破壊され使用不可能となりました。当日はスタッフ総出の懸命な避難作業でなんとか乗り切りました。老健には、28名が入所しておりましたが、周辺医療機関の心温まる対応でなんとか受け入れをしていただくことができました。また、多くの関係者の方、同僚から励ましのメールを頂きました。復旧にはまだ時間がかかりますが、可及的速やかに復興ができるように努力していく所存です。